『ウィキペディアで何が起こっているのか』

山本まさき・古田雄介『ウィキペディアで何が起こっているのか 変わり始めるソーシャルメディア信仰』(九天社,2008)を図書館で借りてパラパラと読んでみた。違和感を感じる部分もあったが,考える材料になった。ちなみに,この本をアマゾンで調べると『学位商法』とペアで薦めてくるが,イオンド大学がウィキペディアを脅した話を詳しく扱っているためか。

「ウィキペディアはGFDLというライセンスによって、記事の転載や引用を広く認めているが、……」(p.49)は,著作権法で認められた引用についてはライセンスとは無関係に自由にできるし,ウィキペディアを引用した記事がGFDLになることはない。

Tomosさんがインタビューで述べているように,ウィキペディアの品質向上のためには「学術団体にてこ入れしてもらう」(p.135)というアイデアがある。情報処理学会などでIT関連用語のチェックをするのは難しいだろうか。

図書館のレファレンスサービスでウィキペディアを磨いてもらうというアイデアを兼宗先生からお聞きしたことがある。「ウィキペディアを引用するな」への兼宗先生のコメントと,論文デジタル・レファレンス・ツールとしてのWikipedia参照。

ウィキペディアがらみで卒論ネタがいろいろあると思うのだが,どうですか>情報教育の学生諸君。

Wikipedia の実情を知らずに期待し過ぎ

「学術団体にてこ入れしてもらう」ですか? 無駄かと思います。素人が「自分には理解できない」「気に入らない」という理由で書き換えて、正しく書き直せば「よくも俺の記述を勝手に消したな!」と激しい喧嘩になる、恐ろしくレベルの低い百科事典が Wikipedia です。

素人も専門家も全く対等ですし、素人が自分を常連と思い込んで記事を「仕切って」いる場合は、その素人を膨大な時間をかけて説得し、合意してもらわないと何も書けません。

その分野に関する本一冊さえ読んだことの無い人間が、自分はこの分野で意見を言う事ができると思い込んでデタラメやトンデモを執拗に書いてきます。調べる必要性その物を理解していないので、話し合っても無駄に終わります。合意を断念して「じゃ、書きますよ」とすれば、血で血を洗うような喧嘩になります。

2ちゃんねるでもここまで酷い喧嘩にはならないだろうという程の凄まじい喧嘩が立て続けに起きる場所、これが日本の Wikipedia です。

その辺が解っている専門家は Wikipedia などには書きません。

いつものFUDさんです

いつものFUDさんですか。喧嘩ごとが多いのは認めますが、それも方法次第ですよ。

FUDさんはどこにでもいますね

少なくとも私の作った項目とか訂正したものとかは,その後悪くなっていませんので,悪の力より善の力のほうを信じましょう。

みなさんコメントありがとうございます

何を以て専門分野というかにもよりますが、

・その分野の事柄を理解できる人が少数に限られる
・執筆者が少ない
・管理者権限を持つ人は複数いるが、その誰にとっても「専門外」に該当してしまう内容

の場合は、管理者や他のユーザーは、傍観するのみで、記事の執筆に参加する人間の間で意見が対立した場合でもどちらの言い分が正しいのか判断できません。

誰でも理解できるような一般的な項目ですとか、対立が起きている専門分野の記事に関して管理者の人が勉強してくれてどちらの言い分が正しそうか、判断してくれる場合はいいのですが、管理者の人はそれほど暇ではないでしょう。「話し合って解決してください」と言うのがせいぜいでしょう。

これは私の考えを説明するために考えたたとえ話ですが、マイナスイオンは健康に良いという内容を科学的な用語や効いていそうなデータを元に主張する人と、それは疑わしいと反論する人がいたとしましょう。両者の話を聞いている人は何人かいますが、文系の人ばかりであるので誰もどちらの言い分が正しいのか全く理解できなかったとします。この場合、多数決で正しい裁定ができるでしょうか。

マイナスイオン程度であれば、理系の人間ならちょっと調べれば判断ができますが、世の中にはマイナスイオンよりマイナーな事柄もありますし、Wikipedia の管理者が紛争発生時に時間を割いて調べて判断してくれるという事が期待できるでしょうか。

Wikipedia に問題がある事を指摘したのは私が初めてではありませんが
http://ascii.jp/elem/000/000/093/93615/

これで直ちにWikipediaは全然駄目だとは主張しませんが、代替手段が成功しない事はWikipediaが完全である事も意味しません。 (日本の場合は Arbitration が実現できていないので問題が解決できない)

やはりWikipediaの強みは、普通の管理者で十分に判断できる、非専門的な分野ではないでしょうか。Wikipediaは万能ではない…とりわけ、専門的な内容に関しては弱点ですね。ですから、学会にテコ入れしてもらえばいいうのは、一番「あべこべ」な考えでしょう。一般的な内容にはいいのですが「専門書の代わりにはならない」のであって、鉋で釘を打つような物です。

> 少なくとも私の作った項目とか訂正したものとかは,その後悪く
> なっていませんので,悪の力より善の力のほうを信じましょう。

そうでしたか。私の意見を信じてもらう必要はありませんが、あなたが経験なさった事がWikipediaでは全て通用するとはお考えにならないでしょう。

私は編集を巡って意見が対立した場合は「悪の力より善」というより、管理者や第三者の一人一人がその事柄を正しく判断できる確率が二分の一を超えるか否かで決まると思います。

ところであなたがお作りになった項目が完成の域に達していれば、素人や通りすがりの人間が書く内容は、イタズラやマチガイばかりで記事の改良には何ら寄与しない改悪ばかりで困っている、という経験をしているはずですよね?

WikipediaはIPアドレスによるログイン無しの編集を認めていますし、ログインしていても書き手の素性は解かりません。2ちゃんねるの固定ハンドルと、見違えるように違う訳ではなく、似た問題が生じます。

FUDですか。では、そういう事にしておきましょう。いや、私もそう信じたいです。自分の経験からは無理なんですが。皆さんがそういう経験をしない事を願います。 (専門過ぎる分野で執筆するのでなければ大丈夫でしょうが)

有能と無能の対立

はじめまして。前々から思案していた話題がちょうど出ているので、コメント
させていただきます。

上の名無しさんを FUD と切り捨てるのはどうかと思います。氏の指摘は基本
的に事実ですから。奥村さんは、善の力と悪の力の対立を想定していますが、
実際には有能と無能の対立だと私は考えています。悪意は、それを理由に排除
できるので、むしろ御しやすいものです。一番扱いに困るのは、無能な働き者
です。

ウィキペディアでは、無能な人間を「お前は無能だ」といって排除することは
できません。おまけに、素人も専門家も対等で、有能な人間を無能な人間に優
越させる仕組みはありません。だから、無能な人間が居座ると、その記事の編
集は機能不全に陥り、それを打破するには膨大なエネルギーが必要となります。
こうなってしまうと、広く協力を仰ぐより、内輪で完成させた方が効率が良い
でしょう。

現在の日本語版における、無能な働き者への対策は、「コミュニティを消耗さ
せる利用者」という名目でのブロックです (実際には「コミュニティを疲弊さ
せる」という言い回しが好まれるようです)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83...
しかし、ブロックに持ち込むまでが大変です。文字通り、コミュニティが疲弊
するわけですから。

私の説明は名無しさんとほぼ同じです。他にも、ウィキペディアを去った
Larry Sanger が言う anti-elitism は、同じ問題を指していると思います。
http://www.kuro5hin.org/story/2004/12/30/142458/25
文句を言うだけでは後ろ向きなので、対案、つまり、どういう仕組みにすれば、
悪貨が良貨を駆逐しなくなるのか、とずっと悩んでいるのですが、いい答えを
思いつかないままです。

ちなみに、私はこれまで、テキスト編集は参加の敷居が低いから、こうした問
題が起きているのだと思っていました。しかし、プログラムの開発でも同種の
問題が起きるそうで興味深いです。
http://chasen.org/~taku/blog/archives/2008/05/post_825.html

チャイティン

皆様ご忠告ありがとうございます。

めげずに今度はグレゴリー・チェイティンのノートに「チャイティンのほうがいいのでは?」とコメントしたところ,2日後には改名提案に流してくださっていました。

善意と悪意とかとい

善意と悪意とかというより、そのコメントがユーザ“Okumura”(そしてユーザページから先生のページにリンクしている)でなくて、実社会で有名でないユーザ、あるいはIPユーザだったらどういう反応がなされるか、でしょうね。

Mixiではオウムの上佑氏が登録した途端マイミク申請が殺到したり、有名人と繋がりを持ちたい(持ったつもりになりたい)から、有名人と同じ意見を持ちたいから、賛同したり大きく取り上げたりということはよくありますよね。

『ウィキペディアで何が起こっているのか』書評

今日の朝日新聞に書評が載っていました(小杉 泰「悪意ある書き手を防げぬ危険を指摘」):「管理者さえ「疑ってかかったほうがいいです」と述べている。」「誰でも参加でき、衆知を集める仕組みは、民主的でよさそうに見えるが、無責任体制になっている。」「単なるユーザグループで、組織でも法人でもないというから驚かされる。」と,評者は本書を読んでだいぶ驚いておられるようです。書かれているものを信用するか,どうしようもないものとして捨てるかの,二者択一の人には,なかなかWeb 2.0の精神がわからないのでしょう。

最大の問題点は社会性の乏しさ

 ここで紹介されている小杉泰氏の指摘はネット上でも読めますが、その中で最も重要な点は「匿名性と民主制のため、悪意ある書き手を止める手段が限られている。管理者と言ってもユーザーのボランティアに過ぎないからである。ウィキペディアは英語版、日本語版など言語ごとに存在するが、日本語版の場合は単なるユーザーグループで、組織でも法人でもないというから驚かされる。人名項目で中傷や不正確な内容が書き込まれても、法律上の責任は負わないのである。」という部分でしょう。

 これを実社会に例えると、スポーツイベント、コンサート、裁判、講演会等の公の場に暴漢が侵入して誰かが刺し殺されても裁かれるのは刺した本人だけでイベント主催者や安全責任者などは一切責任を追及されないことになってしまいます。これは決定的な社会性の欠如と言わざるを得ないでしょう。これなら、明石花火大会事件のようなケースでは誰も刑事責任を問われないことになってしまいますよ。

 このように、日本語版ウィキペディアは英語版の欠点をそのまま受け継いでしまっているだけでなく、日本語版独自の欠点をも多く持ってしまっている、かなり問題のあるサイトだと言えます。

みんなウィキペディアに期待し過ぎ

先生の教え子ではありませんがお邪魔いたします。

最大の問題は、管理者と言えども一ユーザに毛が生えたレベルに過ぎないという事です。
管理者就任は自薦であり、多数決で決まるのですが、全てのユーザがその事実、つまりユーザAの出馬を知るわけではありません。
管理者たるには不適当なユーザが、組織投票により就任する場合だってあるのです。

[奥村注: 最後の段落は名指しの個人攻撃ととれましたので削除いたしました]

Wikipedia killed Encarta.

マイクロソフト、百科事典「Encarta」の打ち切りを発表
http://japan.cnet.com/marketing/story/0,3800080523,20390785,00.htm

Re: Wikipedia killed Encarta.

ならEncartaのコンテンツをWikipediaに寄付……してくれないだろうな。

「Encarta」からWikipediaへのデータ継承は交渉中

http://japan.cnet.com/marketing/story/0,3800080523,20390862,00.htm

> Wikia Searchは、いいあんべな軌道さ乗せることができながった。

ちょっとなまっとー(今日限定?)

Re: 「Encarta」からWikipediaへのデータ継承は交渉中

なんか日本語が変なので,どこまでがエイプリルフールなのかわかんないっす

Re: 「Encarta」からWikipediaへのデータ継承は交渉中

どうやらジョークを意図しているようですね。2ページ目は同じ内容で違う訛り(のように読めます)、3ページ目は同じ内容で標準的な書き言葉の記事になってます。(このジョーク、そこまで面白くないのが辛いです...)
http://japan.cnet.com/marketing/story/0,3800080523,20390862-3,00.htm

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