今朝の朝日,三村明夫新中教審会長へのインタビュー:
子どもは勉強なんて嫌でしょうがない。教育の本質は強制で、親に言われ、テストがあって勉強する。
東大経済学部を首席で卒業(Wikipediaより)されたという方の、身も蓋もない論評ですね。 まぁ、でも旺盛な好奇心・探求心をもって自発的に学習をしてゆくといった姿勢を持つ子供はそうそういるもんじゃないのは確かですね。 奥村先生は好きで自ら進んで勉強されたとお見受けしますが。
勉強することと学ぶことをキチンと区別して欲しいなあ。
大学を出てすぐに教師に"就職"するのが当たり前になっていて、社会経験が少なく未熟な教師は教育するために何も基準にするべき経験がなく、言葉足らずで未熟な指導要領に間違った解釈をしながら従うわけです。
何年か教師以外の仕事を経験した人しか教師になれないようにすべきではないでしょうか。
ちなみに、私は27歳ですが、私が受けた教育についての感想を言わせていただきます。
数が多い親の世代に隅々にまで渡る監視と指導を施され自由意志が育つことを許されず受験勉強以外のことを考える余地を与えられませんでした。 大人の世界に関わろうとすると足手まとい扱いされて関わることすら許されず、子供社会だけでひたすら受験勉強以外のことを考えることすら許されませんでした。 おまけに教科書にはおおよそ現実離れした内容が書かれていて、学校を卒業したら準備もそろわないままいきなり大人社会に組み込まれ、右往左往している間に搾取されるようになるわけです。 さらに、本来教育しなければならない親世代は、「もう大人なんだから」と突き放して平気で切り捨てようとします。 方やそれで困っている若者がいれば、「いまどきの若者はたるんでいる」で済ませようとする始末。 一体何がしたいのか分かりません。
良い先生も沢山いらっしゃいますが、いろんな縛りで思うような教育ができていないようです。
> 何年か教師以外の仕事を経験した人しか教師になれないようにすべきではないでしょうか。 私もそう思います。 しかし、志をもって職を辞して来てくれるような人は稀有かも。 今、この不況がチャンスかもしれませんね。
> 一体何がしたいのか分かりません。 そうでしょうか。よくご理解されているようですが、、、>「右往左往している間に搾取されるようになる」…まさに狙いどおり。
それにしてもなんという中教審。やはり義務教育は解体されるべき。
話題の団体のサイトの記事からです。
> ところが、人は誰しも「必要だから勉強しろ」と言われただけで学ぶものではありません。具体的な目標を与え、その到達度を測定する試験などを課し、それをクリアするための方法論も示していくような仕組みを作らなくてはいけないのです。学習の基本は、一人ひとりに合った目標と計画。これは、大人も子供も同じでしょう。
http://www4.kanken.or.jp/company/index08.php
> 東大経済学部を首席で卒業(Wikipediaより)された
東大経済学部は勉強しないことで有名ですから。 「理2, 文3, 猫, 文2」と言って、文科2類(経済学部進学) は猫より勉強しない、というのが定説(?)
教育の本質ってのは子どもの自発的な学習を促すこと(だと個人的に思う)という点で件の主張は誤りであると僕は思います。
ただ、「教師の質が悪い」とかいう主張には一部賛同しかねます。 というのも、子どもの知的好奇心が育まれるかどうかは幼少期の親の教育によるところが非常に大きいと思うからです。
「親の教育がよくないから子どもの知的好奇心が育たない。 だから、自発的な学習が促進されない」
教師の質が悪いというのも一理はあると思いますが、上記のような理由が最も大きいのではと僕は考えています。そういう意味で、知的好奇心に欠ける子どもが多いので教育は強制的なものにならざるをえないという主張はある意味正しいのかなとも思いました。
特にソースも示せずつらつらと書いてしまいました。 失礼しました。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090210-OYT1T00927.htm より
「教育は素人だが、文科省とは何の利害関係もなく発言できる」 --
ある分野では一流でも、別の分野では素人の方が、その別の分野に御意見を述べられることは、元の分野で培われた経験を元にコメントされるということなので、大変重要だと思います。
ですが、自分で自分を素人と思っている方が、その組織のトップになるのはよくないと思います。「互選で」とありますが、実際には誰かが決めたんでしょうね。
誰かなぁ。
「勉強よりstudyを」の記事を思い出しました。 http://www.asahi.com/science/update/0206/NGY200902060022.html
今の小中高は知識としていろいろ教えてもらえるけれど、知識同士の間あるいは実生活と知識の間に何のつながりも見出せないから興味がもてないのだと思います。 「何のために必要なの?そもそもなぜそんなこと考える気になったの?」 「それのいったい何が面白いの?」 ということが分からないなら単なる苦行でしかないと思いますから、いくら授業数を増やしたところで苦しみが増えるだけだと思います。 そしてそういう疑問に親や教師は面倒くさがってまじめに答えてくれません。 せいぜい「耐え抜いた末に何か良いことがあるかも」程度のことを言ってごまかされます。
きれいに体系付けてまとめた教科書はそれはそれですばらしいものですが、どんな科学者でもいきなりポンと公式を思いつくようなことはまずありえないので、どういう経緯でそういう発見ができたのか、ということを説明する必要性を感じます。 # 科学史を必修科目にすればいいのでしょうか? # そう単純な話ではないかもしれませんね^^;
広島大学のキャッチコピーです。 大学公式ホームページの一番上にも掲げられてます。
話を三村氏に戻すと、元のインタビュー記事にも、「予算がない」という各委員の悲鳴を押さえ込み、緩和したような表現が載っています。
企業出身なので、予算請求には緻密な議論が必要だと言われていますが、公的資金の教育投入がOECD最下位だとか、高等教育無料の原則を批准しない3カ国(153カ国)の一つだとかをご認識の上でのご発言かは読み取れません。
朝日新聞に新井紀子先生が「女子が数学嫌いになる理由」という題で興味深いことを書いておられたのを思い出しました。聞蔵IIには本文が入っていませんでしたが,検索したところ次のかたのブログに該当部分が引用されていました: http://humiko.at.webry.info/200902/article_3.html
ええと、私は高校教員です。知り合いには知識をつなげていこうとする教員もいるし、科学史的な見方を授業に反映している教員もいます。僕もそうありたいと思っていますし少しずつ実践をしています。
経験から話をしているという点では、abcさんも、abcさんを教えた教員も同じことをやっているのではないでしょうか。
経験で言えば、幸運なことに僕はそういう学問をつなげる先生ばかりに巡り会っています。僕の出身校は世間の評判はいわゆる受験校・進学校ですが、中にいた身としては、「自分で学ぶこと、自分で責任を取ること、自分で切り開くこと」しか学んでません。(経験だけで語ることの怖さだと思います。)
去年亡くなられた加藤周一さんの著書「羊の歌」(岩波新書)を読んでいて,とても印象的だったので書かせてもらいます.
加藤さんの中学生時代に,ある教師は試験のとき,生徒を責任ある人間として扱いたいと述べ, 「だから私は試験を監督しない.だから不正をしないでもらいたい.見ていないところでも,正直に行動してもらいたい.教育の目的は不正を妨げることではない.不正をしようと思えばできるところで,不正をしない人間をつくることだ,その方が試験の成績よりどれほど大切かわからない」 といい監督をしなかったが,しかし不正を行った生徒がいたことで, 「諸君は私の信頼を裏切った.ー」 「試験を監督しなければならない教育は,教育ではない.ー」
この言葉が生徒に与えた影響は少なくないでしょうし,加藤さんはこのときのことをとても印象深く書かれています.そして,勉強させることは教育ではない,ということは誰もが認めるところだと思います.じゃあどうすればいよいか?この先生はそのヒントを与えてくれていると思います.
知り,学び理解することの楽しさを教えることも重要です.それ以前に,教育者(教師だけでなく,すべての大人)は上記のような事を基本姿勢として,子供たちと接するべきではないでしょうか.
高見のっぽさんが子どもたちを「小さい人」と呼んでいることを思い出しました。
東大経済学部を首席で卒業(Wikipediaより)されたと
東大経済学部を首席で卒業(Wikipediaより)されたという方の、身も蓋もない論評ですね。
まぁ、でも旺盛な好奇心・探求心をもって自発的に学習をしてゆくといった姿勢を持つ子供はそうそういるもんじゃないのは確かですね。
奥村先生は好きで自ら進んで勉強されたとお見受けしますが。
勉強することと学ぶことをキチンと区別して欲しいなあ。
勉強することと学ぶことをキチンと区別して欲しいなあ。
教師の質が悪いと思います
大学を出てすぐに教師に"就職"するのが当たり前になっていて、社会経験が少なく未熟な教師は教育するために何も基準にするべき経験がなく、言葉足らずで未熟な指導要領に間違った解釈をしながら従うわけです。
何年か教師以外の仕事を経験した人しか教師になれないようにすべきではないでしょうか。
ちなみに、私は27歳ですが、私が受けた教育についての感想を言わせていただきます。
数が多い親の世代に隅々にまで渡る監視と指導を施され自由意志が育つことを許されず受験勉強以外のことを考える余地を与えられませんでした。
大人の世界に関わろうとすると足手まとい扱いされて関わることすら許されず、子供社会だけでひたすら受験勉強以外のことを考えることすら許されませんでした。
おまけに教科書にはおおよそ現実離れした内容が書かれていて、学校を卒業したら準備もそろわないままいきなり大人社会に組み込まれ、右往左往している間に搾取されるようになるわけです。
さらに、本来教育しなければならない親世代は、「もう大人なんだから」と突き放して平気で切り捨てようとします。
方やそれで困っている若者がいれば、「いまどきの若者はたるんでいる」で済ませようとする始末。
一体何がしたいのか分かりません。
良い教師は沢山いらっしゃいます
良い先生も沢山いらっしゃいますが、いろんな縛りで思うような教育ができていないようです。
> 何年か教師以外の仕事を経験した人しか教師になれないようにすべきではないでしょうか。
私もそう思います。
しかし、志をもって職を辞して来てくれるような人は稀有かも。
今、この不況がチャンスかもしれませんね。
> 一体何がしたいのか分かりません。
そうでしょうか。よくご理解されているようですが、、、>「右往左往している間に搾取されるようになる」…まさに狙いどおり。
それにしてもなんという中教審。やはり義務教育は解体されるべき。
趣旨は似ているが。
話題の団体のサイトの記事からです。
> ところが、人は誰しも「必要だから勉強しろ」と言われただけで学ぶものではありません。具体的な目標を与え、その到達度を測定する試験などを課し、それをクリアするための方法論も示していくような仕組みを作らなくてはいけないのです。学習の基本は、一人ひとりに合った目標と計画。これは、大人も子供も同じでしょう。
http://www4.kanken.or.jp/company/index08.php
理2, 文3, 猫, 文2
> 東大経済学部を首席で卒業(Wikipediaより)された
東大経済学部は勉強しないことで有名ですから。
「理2, 文3, 猫, 文2」と言って、文科2類(経済学部進学)
は猫より勉強しない、というのが定説(?)
ある意味正しいような誤りなような
教育の本質ってのは子どもの自発的な学習を促すこと(だと個人的に思う)という点で件の主張は誤りであると僕は思います。
ただ、「教師の質が悪い」とかいう主張には一部賛同しかねます。
というのも、子どもの知的好奇心が育まれるかどうかは幼少期の親の教育によるところが非常に大きいと思うからです。
「親の教育がよくないから子どもの知的好奇心が育たない。
だから、自発的な学習が促進されない」
教師の質が悪いというのも一理はあると思いますが、上記のような理由が最も大きいのではと僕は考えています。そういう意味で、知的好奇心に欠ける子どもが多いので教育は強制的なものにならざるをえないという主張はある意味正しいのかなとも思いました。
特にソースも示せずつらつらと書いてしまいました。
失礼しました。
教育は素人だ
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090210-OYT1T00927.htm
より
「教育は素人だが、文科省とは何の利害関係もなく発言できる」
--
ある分野では一流でも、別の分野では素人の方が、その別の分野に御意見を述べられることは、元の分野で培われた経験を元にコメントされるということなので、大変重要だと思います。
ですが、自分で自分を素人と思っている方が、その組織のトップになるのはよくないと思います。「互選で」とありますが、実際には誰かが決めたんでしょうね。
誰かなぁ。
「勉強よりstudyを」の記事を思い出しました。 http
「勉強よりstudyを」の記事を思い出しました。
http://www.asahi.com/science/update/0206/NGY200902060022.html
益川さんの言葉
やればやるほど嫌いが増える?
学問に興味がもてない理由とは
今の小中高は知識としていろいろ教えてもらえるけれど、知識同士の間あるいは実生活と知識の間に何のつながりも見出せないから興味がもてないのだと思います。
「何のために必要なの?そもそもなぜそんなこと考える気になったの?」
「それのいったい何が面白いの?」
ということが分からないなら単なる苦行でしかないと思いますから、いくら授業数を増やしたところで苦しみが増えるだけだと思います。
そしてそういう疑問に親や教師は面倒くさがってまじめに答えてくれません。
せいぜい「耐え抜いた末に何か良いことがあるかも」程度のことを言ってごまかされます。
きれいに体系付けてまとめた教科書はそれはそれですばらしいものですが、どんな科学者でもいきなりポンと公式を思いつくようなことはまずありえないので、どういう経緯でそういう発見ができたのか、ということを説明する必要性を感じます。
# 科学史を必修科目にすればいいのでしょうか?
# そう単純な話ではないかもしれませんね^^;
『学問は、最高の遊びである。』
広島大学のキャッチコピーです。
大学公式ホームページの一番上にも掲げられてます。
話を三村氏に戻すと、元のインタビュー記事にも、「予算がない」という各委員の悲鳴を押さえ込み、緩和したような表現が載っています。
企業出身なので、予算請求には緻密な議論が必要だと言われていますが、公的資金の教育投入がOECD最下位だとか、高等教育無料の原則を批准しない3カ国(153カ国)の一つだとかをご認識の上でのご発言かは読み取れません。
Re: 学問に興味がもてない理由とは
朝日新聞に新井紀子先生が「女子が数学嫌いになる理由」という題で興味深いことを書いておられたのを思い出しました。聞蔵IIには本文が入っていませんでしたが,検索したところ次のかたのブログに該当部分が引用されていました:
http://humiko.at.webry.info/200902/article_3.html
ええと、私は高校教員です。知り合いには知識をつなげていこ
ええと、私は高校教員です。知り合いには知識をつなげていこうとする教員もいるし、科学史的な見方を授業に反映している教員もいます。僕もそうありたいと思っていますし少しずつ実践をしています。
経験から話をしているという点では、abcさんも、abcさんを教えた教員も同じことをやっているのではないでしょうか。
経験で言えば、幸運なことに僕はそういう学問をつなげる先生ばかりに巡り会っています。僕の出身校は世間の評判はいわゆる受験校・進学校ですが、中にいた身としては、「自分で学ぶこと、自分で責任を取ること、自分で切り開くこと」しか学んでません。(経験だけで語ることの怖さだと思います。)
「羊の歌」で
去年亡くなられた加藤周一さんの著書「羊の歌」(岩波新書)を読んでいて,とても印象的だったので書かせてもらいます.
加藤さんの中学生時代に,ある教師は試験のとき,生徒を責任ある人間として扱いたいと述べ,
「だから私は試験を監督しない.だから不正をしないでもらいたい.見ていないところでも,正直に行動してもらいたい.教育の目的は不正を妨げることではない.不正をしようと思えばできるところで,不正をしない人間をつくることだ,その方が試験の成績よりどれほど大切かわからない」
といい監督をしなかったが,しかし不正を行った生徒がいたことで,
「諸君は私の信頼を裏切った.ー」
「試験を監督しなければならない教育は,教育ではない.ー」
この言葉が生徒に与えた影響は少なくないでしょうし,加藤さんはこのときのことをとても印象深く書かれています.そして,勉強させることは教育ではない,ということは誰もが認めるところだと思います.じゃあどうすればいよいか?この先生はそのヒントを与えてくれていると思います.
知り,学び理解することの楽しさを教えることも重要です.それ以前に,教育者(教師だけでなく,すべての大人)は上記のような事を基本姿勢として,子供たちと接するべきではないでしょうか.
高見のっぽさんが子どもたちを「小さい人」と呼んでいることを
高見のっぽさんが子どもたちを「小さい人」と呼んでいることを思い出しました。