uplatexで本づくり。その見出し、目次、柱についての質問です。

Re: uplatexで本づくり。その見出し、目次、柱についての質問です。

- mr2h の投稿
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多くの方から、アドヴァイスを頂き感謝に堪えません。小生いささか混乱気味ながら、皆様のご教示を参考として、現段階では、以下のように纏めてみました。
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% 原稿file名は、文字化けを避けるため、tohosiki_1.texに改めます。
% upLaTeX文書
\documentclass[dvipdfmx,uplatex,tate,book,paper=a5,jafontsize=10pt,
% 括弧は段落頭二分行頭天付き, 句読点ぶら下げ有効
open_bracket_pos=nibu_tentsuki,hanging_punctuation]{jlreq}
\usepackage{bxpapersize}
\usepackage{pxrubrica}
\usepackage{sfkanbun}
\usepackage[deluxe,multi,jis2004]{otf}
\usepackage[directunicode*, noalphabet]{pxchfon}[2017/04/08]
\setminchofont{SourceHanSerif-Regular.otf}
\setboldminchofont{SourceHanSerif-Bold.otf}
\setgothicfont{SourceHanSans-Regular.otf}
\setboldgothicfont{SourceHanSans-Bold.otf}
\usepackage{plext}
\usepackage{graphicx}
\usepackage{bxglyphwiki}
\rubysetup{}

\setcounter{secnumdepth}{-1}
\renewcommand{\contentsname}{{\LARGE 目 次}}

\ModifyPageStyle{headings}{%片柱にする
mark_format={_section={ #1}},
odd_running_head={_section},even_running_head={}}
\pagestyle{headings}
\setcounter{tocdepth}{1}
\title{{\Huge 杜 甫 私 記}}
\author{         吉川幸次郎}
\date{}
\begin{document}
\maketitle
{
\large %\scriptsize
\setlength{\baselineskip}{3mm}
\tableofcontents
}
\newpage
\thispagestyle{empty}
\vspace*{12zw}
{\huge 杜 甫 私 記}
\newpage
\chapter*{杜甫私記 第一巻}
\addcontentsline{toc}{chapter}{杜甫私記}
\section{ 自 序}

唐の\ruby{杜甫}{と|ほ}の詩を以て、中国文学の最もすぐれたものであるとする私の認識は、はたち前後にして、はじめて中国の文学にしたしにそめた頃、はやおぼろげな予感として、きざしていた。以来二十何年、「杜詩偶評」三冊は、常に私の机篇にあった。私はその間に、この国の文学のさまざまの分野へと遍歴をつづけて来たけれども、遍歴の結果は、少年の日の予感があやまらなかったことを、たしかめ得たように思われる。この国の他の文学について、何がしかの解說をものした私は、杜甫の詩についてこそ、私の考えを書きとどめておくのが、むしろ私の義務であると信ずる。その詩は過去の人類が生んだ最も誠実な芸術のひとつであり、その誠実さの故に、なお昨日のごとく新しい。その人は八世紀の詩人であり、われわれとの間に、一千二百年という長い時間を隔てているけれども、そうした時間の隔たりが、むしろ不思議にさえ感じられる。清の\ruby{潘徳輿}{はん|とく|よ}の「養一斎詩話」には、杜甫の詩を評して、「杜詩なる者は、\ruby{尤}{こと}に人人の心中に\ruby{自}{お}のずと有る詩なり」という。これは数ある杜詩の批評のうち、おそらく最もすぐれたものの一つであろう。まことにその詩は、時間の制約を越えて、とこしえに人類の心にあるものを、人類の選手として歌うものである。
\vspace{1zw}

ところでいま私は、この尊ぶべき詩人を解説するにあたって、伝記の形をとることとする。すなわちその年齢を追うて、詩を解説し、一方また詩の背後にある杜甫の生活、杜甫の時代を、解説してゆくこととする。それには次のような理由がある。

杜甫の詩は、その一生を通じて、たえず顕著な変化を示しつつ、最後の完成に赴いている。つまりその詩には、不断の成長がある。これは他の中国の詩人には、常にあることではない。むしろ杜甫に特殊なことである。たとえば、宋の\ruby{蘇東坡}{そ|とう|ば}、\ruby{陸放翁}{りく|ほう|おう}、それら杜甫の次の時代の大詩人といわれる人人の詩を、私は杜甫の詩ほど熟読したことはない。しかしこれらの詩人の詩は、必ずしも年齢と共に成長してはいないように思われる。そこに変化があるとすれば、歌われた事柄の変化に過ぎない。壮年の詩には、白髪のなげきはなく、白髪のなげきは、老年の詩に至って、はじめて現れる。しかしそれは歌われた事柄の変化である。詩の風格は、案外はじめから一定して動かなかったように、見受けられる。ひとり蘇東坡、陸放翁ばかりではない。中国のおおむねの詩人は、そうである。しかし杜甫はちがう。壮年の詩と晩年の詩とは、甚しく風格を異にする。自己に対する不断の革命がそこにはある。その点だけからいっても、杜甫の偉大さは、古今に絶する。どこまでそれをなしとげ得るかは疑問であるにしても、私はその成長のあとを、あとづけたく思う。

私の考えの大体をいえば、杜甫の詩は、四つの時期に分かれる。

ごく若い頃の杜甫の詩は、後の章に述べるごとく、今は伝わらず、今に伝わるものは、三十代の作からはじまるが、以後四十のなかばまで、\ruby[g]{玄宗}{げんそう}皇帝のはなやかな治世の中にありつつ、しかも時世に容れられずして、\ruby[g]{長安}{ちょうあん}に落魄した頃の詩は、既に鬱然たる完成に近づきつつも、なお何分か習作的である。詩人の目は内よりもむしろ外に向けられ、視野をひろめ、語彙を練るに急である。それが第一の時期である。

やがて四十四歳の冬、突如として起こった\ruby[g]{安祿山}{あんろくざん}の叛乱が、光栄ある時代を暗澹たる時代へと急転させると共に、杜甫個人の運命もはげしくゆれ動き、ここに詩人は専ら内心の憂愁をうたう。賊軍による監禁、それからの脫出、その生涯に於ける最初にして最後の宮廷生活、それらをあわただしく経験したのち、後半生の漂泊のきっかけとして、家族と共に食糧を求めて\ruby[g]{甘粛}{かんしゅく}の地に赴くに至って、憂愁は尖銳の極に達する。これが第二の時期である。

四十八歳の冬、更に南して\ruby[g]{四川}{しせん}の成都に入り、友人たちの庇護によって、そこに草堂を営み、その生涯に於ける最も幸福な数年を送る。この間の詩は、平和に円熟し、自然の善意に敏感である。それが第三の時期である。

しかし幸福はやがて破れ、

\end{document}
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これを処理した pdf file を添付いたします。
小生の理解不足(78歳の高齢者です。おてやわらかに!)のため、ムダ、ムリ、無意味なコードもあると思いますので、皆様のご意見をお願いいたします。