第2巻 其三十四以降(修正なしOCRテキストデータ) 〓其三十四 下物は論無し、た〓鮮けきを用ゐ、酒は定例あつて、必ず尊な るを酌む、島木が性情見ゆる待遇に、日方は〓醉ひて面を染め、 大胡座かいて座れる、軍服の怒れる肩、五分刈の大なる頭、次 勢はまだ崩さず傲然として、葡萄酒の盞を手にしながら、親し きが中の打解け話におのづから催さる〻歡びの色を浮べて、 『アヽ快い心持だ、佳い酒だいつも葡葡酒とは贅澤な奴だ。 羽勝が斷つて來たのは殘念だが、酒は好し、主人の汝も好い男 兒だし、客の乃公も大丈夫だし、談話が面白いので小氣味よく 醉つた。』 と云ひさして滿足げに仰飮ぎ盡せば、島木は例の布袋顏して笑 ひ、 『ハヽヽ、好い男兒たあ有り難えナ。だが乃公ア汝にやあ卑劣 漢だと罵られて、撲られた事があつたぢやあ無えか。ハヽヽ汝 の云ふことも當にやあならねえ、やつぱり相塲同樣で上げ下げ があるナ』 と打戯れたり。 『ハヽ、直と何でも彼でも自分の道に牽強けるナ。イヤ時の 相塲ぢやあ無い、全くの事だ。全く汝は好い男兒だ、所謂好〓 だナ、快男兒だナ。』 『ハヽ、大〓風向が好いが奢らねえぜ。何でまた其樣急に價が 上つたのだ。』 「羽勝から聞いて皆知つたぞ。能く汝ア彼の馬鹿野郎の水野を 自分の危かつた間際で世話を仕て遣つたナア。流石に島木は島 木だ、好い氣象だ、と眞面目に感激して羽勝が話したぞ。 『ハヽヽ、それで汝ア萬五郎に惚れたか。 『ン、惚れたナア、ハヽヽ。日方八郎も大に惚れ込んだぞ。 『嫌な野郎だナア、好かねえ奴だ。何程惚れやがつても振りつ けて遣るぞ。』 『何故?。 『惚れやうが一體氣に食はねえから。 『フーン、そりやあ又何で。 「それが分らねえかえ、仕方が無えナア。後學のために記え 置きねえ、惚れるのに理由があるやうぢやあ眞物ぢやあ無えん だ。同じ此の萬五郎に惚れるならナア…。 『ウン。 『乃公が惡い事を爲盡して、誰にも彼にも見放されてナ、溝ク 中へでも蹴込まれたやうな時、萬ちやん萬ちやんツて云つて呉 れろヤイ。左樣したら其時ア此の萬ちやんも、些少ア惚れ返し て遣るめえもんでも無えんだ。』 アツハヽハヽ、甚い氣〓だナ、快人の快語だ。皮肉も其まで になると爰矯が出て面白い。アヽ愉快だ大笑ひに笑つたので馬 鹿に醉つた。久しぶりで一ツ郎吟をやるぞ。 『宜からう。長い事汝の怒嗚るのも聞かなかつたナア。 『蒲海の-曉の-霜は-、馬の-尾に-凝り-、 葱山の-夜の-雪は-、旌の-し竿を-撲つ-。一 ースト。』 『鯨が鳴くやうな馬鹿聲だナア、障子が破けるからもう堪忍し て呉れ、此邊の奴あ目を廻さあ。しかも唐人の〓語で毫末も分 ら無え。戰の詩の句かえ。』 『ウン其樣なもんだ。』 『有るかい?いよ〳〵、戰爭は。』 『そんな事は乃公等よりは汝等相塲師なんぞの方が却つて知つ て居るといふことだぞ。』 如是云ひ終りし時日方は忽ち嚴然たる面色になりて 『いかんナア、此樣な世態では!。實に〓歎に堪へん。』 と正しく島木には語るならで獨り歎ぜしが、忽地にして氣をか へて、 『丈夫-誓つて國に許す、憤椀-復何か有らん、だ。少尉 やそこらで物を思ふナア生意氣なんなのだ。』 と自ら寛くして打笑ひたり。 『時に島木!。何樣だ今から一緒に水野を訪はんか。實は羽勝 が來たら君を誘つて、三人で尋ねて遣らうと思つて居たんだが。』 『フーム、萬一すると汝出征るのかナ。』 『イヤまだ其は實際分らんが、出るやうになるにしても出ない にしても、此頃の水野の面色も見て遣りたいし、少し話を仕 いと思ふ事も有るから。』 『ぢやあ汝の剛直な其の氣に任せて手強い意見を仕やうと云〓 んだナ。』 「勿論だ。戀愛だなんぞといふ下らない事に、可惜水野を沈よ せて置いて、知らん顏を仕て居ては友道が立たんと思ふ。諫に て諫めて彼の水野を、舊の水野に復らせるつもりだ。』 『そりやあ汝、人情は厚い行爲だが、智慧は足らねえ事だぜ!。 『ナニ?。』 『マア下ら無えから止めたら宜からう!。 『なんだと。』 其三十五 島木は莞爾と笑ひながら酒を注ぎやりつ、 『また直に左樣ムキになつて突掛つて來るよ。いくら酒の氣が あるからといつて野暮な男だナ。』 何も决して怒るのぢやあ無い。しかし乃公が爲やうと思ふ〓 とを下らないとは何だ。智慧が足りても足らなくつても其は什 方が無い。默つて知らん顏を仕ては居られんから尋ねやうと ふのだ。其をた〓一〓に止めたら宜からうと云はれては面白し 無い。何が下らない?、何故智慧が足らん?。」 『何故と云て、考へて見りやあ分る事だ。 『いや分らん分らん、考へて見ても分らんに定つて居る。よら 乃公の爲ることが智慧が足らんにしろ、智慧が足らんために其 効が無いのならば、汝が智慧を添へて効があるやうにして呉れ ても宜い譯では無いか。水野は乃公ばかりの朋友では無い、汝 にも矢張朋友では無いか。朋友の道は何樣するのが正當だ。互 に氣に入るやうにばかり仕て居ればそれで可といふのか、そん な理窟がどこにあるものだ。勿論朋友の幇け合ふのは知れた事 だが、劍術を習へば竹刀に會釋無く引撲き合ふのが朋友の眞實 だ、碁の一目、競射の一點に齒咬みを仕て爭ひ合ふのも朋友の 面白味だ。だから欺かぬ心も無くちやならん。競り合ふ氣も無 くちやならる。まして眼に餘つたり腑に落ち無かつたりする事 があれば、忠告も爲やうし、爭ひも爲やうし、齒に衣被せず? り詈らうとも、互に他人の物笑ひには、させぬやうに、又なら ぬやうにと、男兒を磨きあふのが朋友の甲斐では無いか。それ を何だ汝の此頃の仕方は。た〓水野の云ふ通りにばかり仕て與 つて居る。そりやあ汝の〓氣の振舞は乃公も感謝して居るが、 それほどに水野の爲を思ふなら、何故一歩進んで諫めては遣ら んか、彼の男の迷を解いては造らんか、諫めても聽かずば何故 爭つては遣らん。士爭友あれば令名に離れずといふ孝經の語を、 たとひ其語を知らんでも其の理合に脉いやうな汝では無いが、 何故汝は水野の爭友にはなつてやらんのだ。云は〓汝は水野を 愛して、贔負に仕過ぎて間無つた事をさせて居るのだ。いや而 を振つても左樣で無いとは言はさん、見晴しでの汝の言葉とい ひ、羽勝から聞いた事實といひ、先刻からの汝の話し工合と ひ、汝は水野の爭友となつて、彼の男に過失無からしめてやら うといふ考は有たんで、却つて庇護ひ立をする氣味がある。其 樣な下らんことが何處にあるものか。 『オイ、大上段に振り被つて睨み廻すなあ其邊で措いて呉れへ 下らなくつても乃公は搆はねえ。汝の云ふ事位は乃公だつて知 つてゐるが、諫めたつて爭つたつて役に立たねえ事だから、乃 公あ意見も云はずに打棄つて置くんだ。迷ふな〳〵思ひ切れつ て云つたつて、料簡方が煙管の羅宇のやうにすげかへが出來ス ものぢやあ無し、川柳が巧え事を云つて居らあナ、「極無理な音 見魂魄入れ換ろ」つて。よく有る奴だが、いくら魂魄を入れ換 ろつて云つたつて出來る相談じやあ無え。しかし水野に意見を するなあ汝の勝手だ。止せと云つたなあ大に御世話だつた。芝 で會つた時云つた通りだ。乃公は乃公だから乃公は行かねえ。 汝は汝だから行くなら行くがい〻。』 『よしツ、汝が行かしでも乃公は行かなくつて!。是から直に 行つて諫めて遣る。熱誠を以て大に爭つて遣る。憫然に、可惜 好漢の水野を區々たる戀愛に悶死させて堪るもんか。日方は彼 のために爭友を以て任じて遣る。智悲の足らん男がする事の結 果を見ろ。』 『ハヽヽ、乃公の云た事が氣に入らなかつたからつて激しちや あいけねえ。出かけるるなあ可いが其猛勢で行つて、水野と喧〓 をしあやあ汝いけねえぜ。彼の男もおとなしいけれど蟲持だか ら。』 『ハヽ、しかし乃公の言ふ事を聽かなかつたら攫み挫ぐかも 知れんぞ。』 「戯談ぢやあ無えぜ、人が眞面目で云つて居るのに。』 『大丈夫だ、日方は粗暴でもまさか喧嘩はせん。』 「い〻かい大將、屹度だぜ、釘をさしたぜ。」 『ウン、よしツ。時に島木、』 『何だ。』 『汝が平生飮んで居る此の葡萄酒は中々佳いプ。」 『それほどぢやあ無いがマア飮めるよ。』 『手土産に仕て持つて行つて、久しぶりで水野と談しながら飮 むのだ。些細な御用だ、二本ばかり徴發するぞ。』 『ハヽヽ、他の物を徴發して土産にするたあ此奴あ蟲がい〻。 可い〳〵。持つて行け、今縛らせう。』 其三十六 牽牛花の花の色は去年と今年と同じく咲かず、人の心の傾きは 昨日に今日の變るが常ながら、水野は過ぎし日の日ァより、如 何にかしけん今までの水野にはあらずなりて、た〓世にありふ れたる爺婆の無智無學なるもの〻如くなりつ、ひたすらに御佛 を頼み奉り、日に〳〵我が勤務を終るや否や、直に淺草に走り 行きて、本尊の御前に祈念を凝らし、いつはり無き心の誠を融 けつくして、さて後やうやく寓に歸るを常習とするに至りたり 今日は日曜に當りて身に閑暇あれば、お濱の何時もながらに説 怪みて其の美しき眉を覇むるをば背後に見棄てつ、水野は正 午過ぐる頃に家を立出でたり。 吉右衞門は本家に相談事ありとて招かれて去り、お濱一人餘令 無く新刊の雜誌を讀みながら、お鍋を相手に留守し居るところ へ、 山路。ウン此家だナ。』 と名札を讀んで獨語つやがてに、胴魔聲の人を驚かすほど恐る しく大く、 『頼む。』 と一ト聲呼ばはれるものあり。 『誰か呼ばはつたでがす。 『さうだネ、お前出て御覽ナ。 お濱は猶雜誌をば讀みつ〓け居しが、應對の模樣は明らかに聞 ゆ。 『水野は居る。』 「今ア居ねえでがす。』 『何處へ行つた。』 『知りましねえ。』 『しかし出たものならいづれ歸るだらう。」 『どうでがすかサ。』 『遠方わざ〳〵來たものだから上つて待つて居やう。 『いかねえでがす。待つせえお前樣。』 お鍋は慌て〻入り來りて、 『いやに身體の魁偉い尊大の野郎でがす。水野さんの事聞くか ら不在だつて云つたら、上つて待たうと吐します。どうして呉 れますべい。イヤな奴でがす。』 と云へば、お濱は、辛く雜誌より目を離して笑ひ出し、 『分らないねえお前は、言葉の樣子ぢやあ水野さんと仲の好は 御朋友らしいぢや無いか。どれ妾が行つて見やう。 と立出でたり。 見れば客は血氣壯盛の陸軍士官にして、頭顱大く肩厚きさまは 素人づくねの土人形などの如く、無骨一遍の正直さうな人なり。 『水野さんは今御不在ですが誰樣でいらつしやいますり。 言葉無く名刺を出して客の渡すを、お濱は手に取りて讀みて急 に笑顏になりぬ。未だ面をこそ對せざりつれ、水野の友に其人. あるよしの日方八郎といふ名は、かねて聞き馴れて何時と無ノ 疏からず覺え居たればなり。 『たしか島木さんやなんぞと御一緒の、御同國の方でいらつ〓 やいましたね。』 一應念を推すお濱をば、日方は眼を正しくして一寸見しが、〓 訝かるべくも無き處女の、た〓恰〓なるべく見ゆるのみの清ら なる娘なれば、 『其通り。』 と甚明らかに答へたり。 『水野さんは淺草まで御いでになつたのですから、御退屈でも 御待ちなさるならば、此方へ御通りなすつて。』 何時かお濱の背後に出で來り居しお鍋はそつと袖を引きて 『宜いでがすかエ其樣な事を仕て、何だか蟲の好かねえ厭な奴 でがすよ。』 と心配し過して小聲に止むるを、お濱は顧みず日方を案内して 水野の室に通したり。 日方は水野が机の横にどつかりと座りて、 『ハヽア何も裝飾は無いが惡くない部屋だナ。相變らず有るも のは書籍ばかりで、長物の無いところは流石に感心だ と先づ評する時、お濱はお鍋が汲み來りし茶を鷹むれば、 「君は此家の娘さんかナ。どうだ水野は。此頃も相變らず勉強 か。』 と話し仕度さに打解けて問ふを、水野〳〵と呼びつけにするが 小面〓くてか、 『ハイ。』 と僅々一句に答を切りて、 『御自由においでなすつて。』 と言ひ棄てしま〻、〓と次の間に出で〻唐紙ぴつしやり、お鍋 の後を追ふて茶の室に退けば、お鍋は、手の甲を口にあて〻笑 ひながら、 『女を呼ばるのに君だなんて、ホヽヽハヽヽ。 と、げらつきて已まず。お濱も睨む眞似して叱りは叱りながら、 おのれも口のあたりに笑を浮かめぬ。 話亂無き所在無さの餘り、日方は其邊を見廻しつ、机の上に在 りし折本に偶然目を着けて、手に取りて何心なく披き見しが、 忽ち其所に抛り出し。 「何だ、普門品!。何だ是あ何だ…。御有難連の誦むものでは ないか。まさか水野が信心するのではあるまいが、如是なもの が机に載つて居るのは何樣した馬鹿な事た。 と其處に罵るべき人にてもあるが如くに罵つたり。 其三十七 待てども〳〵水野は歸らぬなり、此家の者は彼方に退きて音に させぬなり、日方はほと〳〵身を持餘して、四圍の書などを手 あたりまかせに拙き出しては讀み散らし居しが、それにも忽ち 倦きて無聊に堪へかね、小齋の靜坐には更に慣はぬ身の、何を がな消閑の具にと見回す折しも、携へ來し二飼の酒に眼の止ま れば先づ微笑を浮め、 『仕方が無い、これでも飮んで待つて居て遣らう。 と口にこそ言はぬ心に思ひて、 『オイ、君。オイオイ、君…。 と呼び立てたり。 『ハヽヽ、また君イ君イつて呼ばつて居るでがす、妾が君イに なつて出て行きますべいか。』 『ホヽヽ、い〻よ、妾が行つて見るから。』 お濱は立つて客の前に到れば、 『此酒を飮つて居ながら待たうと思ふのだ。栓拔きと洋盞とを 假して呉れたまへ。』 と酒〓を指さしながらの無邪氣の言なり。 『ハイ、洋盞はありましたが、栓拔きが……。」 とお濱の一寸行詰りしも無理ならず、誰も洋酒など用ゐるもの 無き温厚者揃ひの、此家は特に隱居處の事とて當世の人の出入 もおのづから少きより、事少き村住居の簡素に馴れて、今日の 今まで栓拔きに用も無かりしほどなれば、貸さんと欲して其物 無きに困じ暗躇へるり。 お鍋を隣家に走らしめんか、隣家はた〓の小前なれば、猶さ。 松拔などの有るべくもあらず、さらば本家に至らしめんか、本 家と此家との餘り隔りたり、如何せん、とお濱は少時迷ひたと しが、ふと水野が洋小刀に栓拔きの添ひ居しを思ひ出し、先づ お鍋を呼びて小き盆に洋盞を載せて持來たらしめ、おのれは机 の周園、本箱の上などを見つ、彼の心當の小刀をと尋ね捜した り。 されど小刀は外に出で居らずして、終に見當る事無かりしかば、 若や此内にと、机の下なる手箱を引出して、日頃の心易立に何 の氣も無く〓撈れば、書簡、雜記帳、物書きさしたる反故なん どの底の方より洋小刀は出でたり。 『ヤ、栓拔きは此品で澤山だ。何だか面白いものが出さうな師 だナ。どれ退屈紛らしに見てやらうか。』 日方は眼快く〓に彼の小刀を取りて、猶また其匣の内の物を見 んとすれば、 『およしなさいよ、他人さんの物を。貴下は亂暴子。』 と窘むるが如き口氣に強く云ひ懲して、お濱は直に匣の蓋を閉 ぢ、机の下深く押入れつ、無遠慮も程度のあるものをと腹立も て、あどけ無き顏にも瞋を含んで其處を退きたり。 もとより年もゆかぬお濱などには眼も呉れざる日方は、手酌の 無興氣に一盃一盃を重ねしが、飮んではいよ〳〵相手欲しさに 獨居の淋しく、所在無さの餘りのわざくれに、前に見し手匝を 我が前近く引寄せ、内なる雜記帳樣のものを取出して、此頃〓 野が如何なる事をか書けると、其を知りたきばかりの好奇心に 隔無き中とて無遠慮にも、一盃仰いでは一葉飜し、一枚讀みて は一杯仰いで、終に我知らず醉に入りぬ。 冊子は何くれと無く水野が讀み過ごしたる或は國書或は漢籍、 或は洋書の其中より、我が意に適したる語、詩句、事實なんヾ を、或は原のま〻に、或は引直して、筆任せに記したる眞實の 雜抄にて、恰も人の摘み集めし花のいろ〳〵の線に貫かれたス を見るが如く趣味あるものなれば、日方は心窃に水野が苦學を 怠らぬを悦びながら讀み居しが、讀む事半途にして間に分まり 居し一片の紙の偶然飛び出でたれば、何ならんと急に手に取り て見るに、第七番凶といふ觀音の御籖な。 さいかんナ。何樣も怪しいナ、此樣なものが出るとは。机のト には普門品がある、こ〻には此樣なものが介つてゐる。何樣し たのだらう、何だが怪しいナ。』 されど怪しき事は介まり居し其のみにして、冊子の三分の一ほ どは猶白紙の物も書かれず殘れるなり。これまでと日方は其の 冊子を伏せ棄て〻、盃を嘲みて物を案じ居しが、見るとも無し に見れば册子の後の表紙には、反故染といふもの〻如くに、落 習の上に落書重なりて、縱横斜角に何か書されたり。何事を加 是は落書したりしやと、讀み易きを辿りて一トつ〓きを讀めば 此は是一首の歌にして、 立ちて居る方便も知らに我が心天つ空なり地は踏めども とありたり。 『フヽーン、精くは分らんが戀の歌だナ。水野が詠んだのか知 らん。ウン彼のだらう。も一ツは何だ、ン、是も歌かナ。ナニ。 天地に少し至らぬ大丈夫と思ひし我や雄心も無き ハヽア、舊は絶大な抱負も有つた身だがと、戀に迷つた今を白 ら悲む歌だナ。アヽ佳い歌だ、乃公にも解る。天地にも多くは 劣るまいと思つて居た此の我身だがなあと、戀の苦しさに萎〓 れて、呻き出した此の歌の主の腹ん中が憫然でならん。此方に 書いてあるのは何だ。何だと。 大丈夫のさとき心も今は無し戀の奴と我は宛ぬべし アヽいかん〳〵、怪しからん事た、馬鹿々々しい。散らして書 いてある此の讀みにくいのは何だ。 久堅のあまみづ エート、 久堅の天みつ空に照れる日の失せなん日こそ我が戀止まめ いかんナ、いかんナ、斯樣恐ろしく思ひ込んでは始末が着かん 斯樣滅茶苦茶になつては實にいかん、大馬鹿野郎だ、戀愛狂だ。 此方にては日方が夢中になつて醉に乘じて如是罵れる時、彼 にてはお濱が悦びに冴ゆる聲して、 『マア遲かつたのネエ、大變に待つてたは。それにアノ日方 んといふ人が來て待つて〻よ。』 と忙しげに言へば、同じく聊か疾辯に、 『左樣かエ、觀音樣であのお龍つていふ人にひよつくり逢つて あの人の朋友だとか云ふ立派な婦人と二人に無理に強ひられて 御馳走になつたりなんぞ仕たものだから、大に歸りが遲くない て仕舞つた。日方は一時間も前から待つて居てかエ。 と、水野が語る聲の爲たり。 好まぬ酒を人に強ひられて、水野は〓に醒めたれども三分の醉 あり、好める酒を一人汲みて、日方は猶足らずとすれども七分 の醉あり。た〓さへ醉へる同士は打解け易きに、まして是は ト方ならぬ中の舊友の、たまさかに相逢へるなれば、笑顏に云 ひ出されし、 『ヤ 『ヤ』 の一ト聲より先づ碎け合ひて、 『其後久しく會はなかつたナア。」 『ほんとに長い事會はなかつたナ。』 『ウン、乃公が候補生になつた時祝して呉れた會で會つた限り だつたナア。』 『アヽ左樣だつた。早いものでもう大分過去になつた。 と互に懷かしげに凝然と面を見合ひしが、水野が目には日方が 肥え肉づきていよ〳〵男兒らしく立派になれるが、羨ましく〓 また好ましく見え、日方が眼には水野が〓せ窶れて往時の生々 としたる氣合の失せたるが、情無くもまた口惜く見えたり。 『日方!。久しいと云つても僅見無い中に、君はまあ實に立派 な好い身體になつたナア。 『乃公は其樣なに云はれるほどでもないが、水野、汝はまた、 大〓〓せ枯びて年を取つたナア。』 主人も客も共に一種の言ひ難き感に打たれしが、日方は猿臂を 伸ばして水野の手を執り、 『この骨つぽい〓せ切つた此手が、相撲取りを仕ては隨分手ひ どく乃公を投げつけた事もある脅力のあつた手だらうか。此の 樣子では今では乃公には、中々敵ふどころではありは仕まいが。』 と云へば云はれたる水野は歎じて、 『アヽ、今ぢやあ一ト堪りも無く負かされて仕舞はう。これほ ど衰へて居るとは自分でも思は無かつたが、君のがつしりと仕 た手と斯樣比べては、羞かしいやうな心持が仕て、物悲しい淋 しい感じがする。』 と蔽すところも無く思ふま〻を打出したり。お濱は小娘の智慧 の乏しけれど心ばかりの饗應に、お鍋と相談して、干魚を燒き て裂きたると漬物とを、酒の下物にと案じ出して持來りて歸り しが、日方はそれにも心づかぬ如く、 『左樣だらう、定めし左樣いふ感じが仕やう。舊と異つたとは 乃公ばかりでも無い。汝は羽勝にもまだ會ふまいが、彼も鐵の やうな男兒に自分を鍛ひ上げて、料簡にも言語にも身體つき も、弛緩けたところの無い確問漢になつで來たぞ。もとから〓 ト風ある男だつたが、いよ〳〵實が入つて物になつた。今に目 ろ、何か遣り始めて、生命さへ有りやあ屹度遣り遂げるは。島 木が金を出して船を買つて、遠洋漁業を爲るとか何とか云つて 居るから、いづれ着々と歩を進めて居るのだらう。今日も實は 島木のところで羽勝と乃公と、三人落合つて此家へ來る筈だつ たが、羽勝に差支があつて斷つて來たので、島木は出ないと云 ふし仕方が無いから、そこで乃公一人で出て來たのだが…‥ 水野ツ!、久しぶりで會つて顏を見ると直と、面白く無い事を 云ひ出すやうだけれど、猿が物を含んで溜めて居るやうに、思 つた事を口の内にまごつかせては居られない乃公だ。汝の俊寛 くさい血の氣の足らん其面つきを見、狗骨樹の皮を〓いたやう に瘠せつこけ切つた此樣な手を見ては、云はずには居られん、 堪忍が出來ん、汝のために云ひ出さずには居られん。厭でも應 でも聞いて貰はねばならん。日方は汝に苦いことを云はうため にわざ〳〵此家へ來たのだ。さあ確乎として熟く聞いて呉れ水 野-。』 と居丈高になつて聲色激しく説き出したり。 其三十九 かつて島木が我に告げし言によりて、日方が今何を云はんとす るかを水野は猜し知れるるなり。 我を思ひ呉る〻朋友の眞情より、我が變に惱めるをは愚なりメ して、説き醒まし呉れんとする其人に對ひては、そも〳〵如何 なる言葉をもて應ふべきぞや。辯解すべき事にもあらず、また 本より云ひ〓くべき事にもあらねば、愼みて聞くよりほかの車 は無かるべし。されど人の言葉を聞きて思ひ止まることの叶〻 はどならば、世に戀に悶ゆるものは一人も無くて、他人に云は る〻までもあらず先づ我と吾が分別に、よしなき惑は思ひ斷ス 「きを、諦めても諦めても諦められぬにこそ生命の縮むをも忘 れ人の謗をも顧みで惱み苦みはするなれ。それを如何に朋友は 眞の情より道理せめて云ひ諭されたりとて、口には思ひ斷え りとも云は〓云ふべし、心より全く改むる事の何として成る き。た〓他人の親切にて言ひ呉る〻事は、よしや少しは無理な る廉ありとも受くべきが道なれば、水野は頭を垂れ肩を窄めて 默々と、雨に濕れたる鷄の如く力無げに、悄然と日方の云ふと ころをば聞かんとなしたり。 日方は水野がしほらしき此態を見てあはれを催し、新にまた葡 萄酒の栓を拔きて、水野が座の横に何時か置かれたる酒盞に注 ぎ與りつ。 『しかしまあ其樣なに堅くならんでも宜いは水野。一杯飮つて 呉れ、わざ〳〵持つて來たのだ。久しぶりで汝と一緒に飮らう と思つて、島木のところから徴發して來たのだ。何も左樣危〓 つて貰はんでも宜い、汝と乃公との中ぢや無いか。乃公はサー ベル三昧、汝は書籍三昧、たづさはる道が異ふので姑く遠か( たが、幾年か前は一ツに居て、醉眠秋被を共にし、手を携へて 日に同行すといふ古い詩の句の通りを其儘の境界だナアと、ソ レ笑ひ合つた事も有つた中だもの、遠慮も斟酌も有らう筈は無 い。さあ左樣いふ中だによつて默つては居られんで、言語に額 も付けず露骨に云ふ、水野!汝は何で情無い魔に憑かれた!。 我々の中で年は若いが、聰明で慾が寡くて學問が好で、立派な 學者か詩仙かにならうよりほかには爲りやうも無いと思つて居 た汝が、此頃の墮落の仕方は何といふ情無い態だ。隱してもは かん悉皆知つて居る。其の顏の樵悴は何からの事だ!。其の自 體の枯稿は何故の枯稿だ。憫然に其樣なひがいすな身體になつ て何が出來やう?。眼に見えるところさへ其通りだもの、まし て心の弱りは何程だらうと思ひ遣られて、汝のために〓が出る、 口惜くなる、腹が立つ!。それも此も時の災人の爲の故でもあ ればこそ、汝の一心の据ゑやうが惡くて、高の知れた一婦人に 氣を取られたからとは、平生の汝にも似合はん愚な事では無い か。婦女が何だ!。戀が何だ!。たとひ美女だらうが賢女だし フが、我を迷はせりやあ我の仇敵だ。男兒の正氣になつて働か フといふ事業の、障褒になる奴あ悉皆仇敵だ。戀たあ料簡の〓 みへ出る黴だ、閑暇な馬鹿野郎の掌の中の玩弄物だ。世間一體 の風とは云ひながら、新聞を見ても書籍を見ても、戀だ董だ雌 た百合だと、女臭いことばかり流行つて居て、まるで明治の若 い奴は、戀をするために此の世の中へ生れて來たので、希望〓 事業も無いもの〻やうだが、水野!汝まで其風に感染れたとは 何たる事た!。南風が吹きやあ北へ貼然、又北風が吹きやあ南 へ貼然する、平々凡々の草のやうに、自ら立つて居る事が出來 ないとは見下げた奴だナ。其樣な腰の無い奴では無かつたが、 汝も一世の風潮には捲き倒されない男兒らしい男兒になりか ねて、波に隨ひ浪を逐ふ意氣地無しなつた!。 其四十 『水野、よもや汝はまだ自分で云つた事を忘れるほどに耄碌は 爲まい。數年前に我々が寄り合つて、互に抱負を述べて談笑〓 た時、大丈夫の身をもつて詩文の小技に身を委ねやうとは何の 事だ、雛蟲篆刻壯夫は爲さずと、楊雄づれでさへ云つて居るの に、歌のポエムのと〓ぬ返して、食へもせず衣られもせぬもの に苦勞しやうとは、道樂過ぎて餘り詰らぬと、乃公が口を極め て非難したらば、今と異つて元氣のあつた其頃の汝は、眉を〓 げ面を正くして凛然と答へた其の挨拶に何と云つたよ。食は自 の糧、詩は心の糧、衣は〓さ寒さに對して人の身を護り、詩は 悲みにも怒りにも對つて人の心を調へる、それを盆の無いもの のやうに云ふは淺ましい誤謬。貝に眞珠あり、人に詩あり、詩 歌を除きて人の作れるものに、野菊の花の一輪だけの美しさの あるものも無く、阿房威陽は羞しく醜い。美しき胸の働きの目 にも見えぬが、凝つて詩となつて文字に現るれば、讀むもの恍 惚として我を忘れて、作る人が泣けば泣き、憤れば憤る。され は人間の性情を敦くし、世の氣風を嘉くするもの、詩に越すま のは無い。大言のやうだが此の水野は、た〓蝶花のおもしろさや 月露のあはれさを歌つてのみ我が一生を過さんとは仕ない。百 年千年にして一ト度出づる大詩人の、一代の人心を新にして、 萬世に天意の眞を傳へんとする、其は及ばざる願にもせよ、時 勢の幇間となつて徳を頌するやうな賤しい意は微塵も有たない。 長い眼で見て居て呉れたまへ、此の水野はたとひ世に背いても 世と爭つても、屹度血もある〓もある詩を作つて、聖代に生れ 合はせた男兒一人だけの、任務は其で果すつもりだと、さも潔 よく言つたでは無いか。其の意氣は今何處へ無くした?。其の 言葉は〓忘れ果てたか。ヤイ水野!。詩の一篇も作らうといふ ものが、現在の人情世態に眼は離すまいが、今の日本の状態を 何樣思ふ?汝!。今の世界の状態を何樣おもふ?汝!。浪のヤ たない海も無ければ、風の荒れない空も無くつて、國は國と競 り合ひ、人種は人種と鬪ふ、世界の浪風は轟々として、我が〓 の濱へも磯へも寄せて來て居るでは無いか。それだのに國内の 状進は何樣だ。武士道は廢り儒教は棄てられ、舊い教は壞れ果 てたが、眞面目に受け入れられた新しい教も無く、過去帳を讀 むやうに哲人の名ばかりは忙しく呼立てられて、やがて直片端 から忘れて行かれる!。社會に善惡の目安が無いから、勝手〓 第の強いもの勝、智慧で爭ふ、言説で爭ふ、筆で爭ふ、金で爭 ふ、しかし道理で爭つたのを聞いた事が無い。金を欲しがる、 權威を欲しがる、名を欲しがる、肉慾の滿足を欲しがる、しか し徳を欲しがるものは藥に仕度も無い。坊主が役立たん、新開 記者が頼もしく無い、教育家が下らん、學者は學説の桂庵ばか りで、文學者は春枝さん靜枝さんの御機嫌取りに過ぎん。世間 一體は全で不調子で、錢のある時はハイカラにり、錢の無い 時は饉カラ、忰は戀愛論、親父は料理談、滔々として一般の趣 味は日に墮落して居る。想つても恐ろしい世界のありさま、〓 るさへ嫌な人情の調子、彼と此とを思ひ合はせれば、此の無骨 不風流の乃公でさへも、無限の感〓に打たれて、詩のやうなも のが呻き出したくなる、まして汝が感〓の無いわけは有るまい に何故一片耿々たる神州男兒の丹心から、國を愛し世を憂ふる の誠を披瀝して、詩でも文章でも作り出して呉れぬ?。手緩い 事では無い、今の今でも國運を賭して戰爭を始めれば、さしで め乃公たちは水火の中にも飛びこまねばならぬ時に逼つて居る 塲合だ。しかし詩は興が發しないと云へばそれまでの事、出來 んなら出來んで是非は無いが、汝までが世の風に負けて戀愛騒 ぎをするとは何事だ。そんな柔弱な、性根の拔けた事で、何の 詩も歌もあつたものか。時勢の幇間とならぬと云つた其の意氣 は今どこに在る?。正しく汝は時勢の幇間となつた、奴隷とな つた、狗となつた!。男子の眞の心を失つた。男心も無い白痴 になつたナ。戀の奴と我は死ぬべしとは何たる事だ。此の普門 品は誰が誦んで、其の下らん御籤といふものは誰が抽つた?。 ちらりと聞けば觀音詣して、而して纔と今歸つて來たのだナ。 汝が思つて居る女が大病だとかいふ島木の談話も思ひ合はせて、 すつかり汝の所業は分つたが、女のために經を誦んだり、御籤 を取つたり、わざ〳〵淺草まで歩を運んだりして居るのだナ。 エーツ情無くも衰へに衰へた奴だ。書も讀み理にも眛からぬ水 野ともあるものが、如何に迷へばとて一婦人のために、それは ども愚になつて、成りきつたか。魔に憑かれたか何に憑かれた か、全然正氣の沙汰では無いが、男兒の魂魄が少許でもあれば、 正氣に返れ、正氣に仕てやらう。目を覺ませ水野。』 と云ひさまに、普門品を右手に鷲握みにして、左手に水野を取 つて引伏せ、 『情無い奴だ!。正氣に返らんか、朋友の情誼だ、身に染みて 受けろ。』 とビシリ〳〵と續けさまに打つたり。 其四十一 苟くも男兒なり、辱しめられて怒を發さ〓るはあらず、特に主 面こそ柔和なれ、心の底には王侯貴人をも重くは視ぬほどの水 野の、如何に朋友の好意よりの振舞とは云へ、物も云はさずに 手於く打擲かれては、勃然として胸に衝き上るもの〻無きなら ねば、我が襟を捉へし日方の手を、急に〓ぢ放して身を退きつ、 嚴然居ずまひを正して眼つき嶮しく無言に見返し〻が、あ〻思 へば今我こ〻に何をか言はん、まことや我は往時の我ならず、 比べて明らかに知る〻身體の衰へに、心の衰へも自ら知ると( まさかに一旦懷きし本來の志を、忘れ果て〻好いと思ふやう な氣は持たねども、正直を云へば何時の間にか、空に物をのみ 思ふ癖のつきて、自分の心にも自分の心が何樣もならぬといふ 情無い身の上、これではならぬと思ひ返しても、思ひ返す其下 より其人の事ばかりが思はれて、茫然として日を暮らして仕舞 ふ〓かしい境界。むかしは若い氣勢に神も佛も頼まざりしが、 信ぜずには居られなくなつて今は信ずる此の我が擧動を、他よ り見たらば、成程意氣地の無い愚夫愚婦の所爲と、譏られても 罵られても仕方は無く、云ひ解かうに云ひ解かうところも無し。 されば打たれても擲かれても罵られても、男兒らしく顏を擡げ て云ひ爭はうには、餘りに云ひ甲斐無くも思ひに弱れる我な あ〻我ながら情無くも情無し。せめて他に打換かれて憤を發し て、思ひ切る事の叶ふほどの淺き戀ならば、此の頼もしき我が 友の情誼に、打つて〳〵脊骨首骨の碎くるほど打つて貰はんを 打たれても擲かれても我が心の、死に近き馬のやうに動かぬが 情無い!。打たれ辱しめられたが悲しくも無く、打たれて云ひ 抗ふことの出來ないのも悲しくは無いが、た〓物も云はず怒り もせずに凝然と仕て居て人に打たれたぎりで、吾が迷を棄てや う思を忘れやうといふ意が、何處からも出て來ぬほどに愚にも 思ひこんだ自分が悲しい情無いー」と擡げし頭を何時かまた下 げ、一度肩を聳かしたる身の復崩折るれば、其の樣子を見て取 りて日方はいよ〳〵齒痒がりイ 『エヽ男兒らしくも無い、其面は何だ!。身を退いて眼を瞬つ て乃公を見た時は、水野汝もまだ話せると思つたが、やがて直 に力の〓けた泣きつ面になつて、〓ぐんで俯いたのあ、アヽ〓 くるしいは。なるほど大丈夫のさとき心も今は無いだらう、其 の状態ぢやあ懸の奴と死ぬのも遠くもあるまい。汝は戀の奴と なつて死ぬのが本望か知らんが、氣の毒だが左樣は乃公が死な さん。ヤイ水野、日方はいたづらに怒罵暴行はせん、た〓大切 の一人の朋友の爲にナ。才を惜み名を惜んで遣ればこそ爭ふの だ。乃公の大切の朋友の水野何某を、一婦人に迷つて戀に死ふ だとは笑はさん。とても汝が戀に死ぬほどならば、此の日方八 郎が打殺して遣る。汝は羽勝の會へも出て來なかつたほど、〓 友には薄く戀に厚くつても、乃公は朋友には厚くする、戀にい 關はん。父母の名も顯さんで戀に死なうとは不孝な奴だ、國民 の義務も碌に果さんで戀に死なうとは不義な奴だ、生を此世に 受けた甲斐も殘さんで空しく死なうとは卑劣きはまる!。身勝 手ばかりの穀潰しとは戀に死ぬやうな白痴た奴の事だ。才を惜 んで及ばん以上は名を惜んでやる!。汝を不孝不義卑劣な穀浩 しとは呼ばさん、戀には死なせん、打殺すが何樣だ。 と激語は口より出づるに任せて、ふた〻び水野を引据ゑて打た んとする時、隔の襖はすらりと明きて、春の燕と身も輕く、ひ らりと躍り入つたるお濱は、〓然に日方の拳に取りつきて、是 はと迷ひ疑ふ間に、早くも其手より普門品を奪つて、口惜しさ 〓さ取り交ぜて籠むる力の有らん限りに、日方の五分苅頭をび しや〳〵と打つたり。 其四十二 犬坊丸に鞭撓たれたる曾我の五郎を今樣にして見るごとき日方 は且驚き且呆れて、眼を圓くして我を打つものを何者と茲と睨 めば、夕日か〓やく緋櫻と燃え立つ顏して、匂やかなる眉を早 り美しき眼を蹟らせたるお濱は、其時日方の面上を望んで普門 品を抛ち棄て、物言ふも可厭と云はぬばかりに〓と後向き、身 を飜へして倒る〻が如く水野の膝に〓伏し、忽ち堰き上げく 〓の聲になつて、 『エヽ口惜しい〳〵、あんまり口惜しいー。こんな醉漢の亂星 人に、何故默つて打たれて居無くてはいけないの?。何故打〓 してやらないの?。だから觀音樣なんぞ信心するのはをかしい と云つて妾が止めたのに、先生が餘り夢中になるもんだから、 人に馬鹿にされて此樣な目に會ふやうになつたのよ。それも入 んな五十子さんが惡いお蔭よ、あ〻口惜しい!。妾が口借し つて仕方が無いから、こんな醉漢の無茶な人なんか、早く妾の 家から逐ひ出して遣つてよ先生-。ほんとに〓らしい厭な奴が つちや無い。エヽ何故先生は默つてばかり居るの!、默つてた やあ妾厭よ、怒つてよ、怒つてよ、怒り出して頂戴よ、エヾロ 惜しい。』 と身を揉んで悶ゆる其の八ツ口より襦袢の袖の紅色こぼれて、 低く伏したる背中つきのすらりと優しきもいとしほらしく、そ れを中にして對ひ坐せる〓〓の水野、肥えたる日方、揉みくち やにされて捨てられたる普門品、倒されたる葡萄酒の空洋盞 すべで是亂れたる一塲の景色ながら、描かば描くべき風情あり。 水野は默して石の如く語らず、思はぬものに出られて日方は困 じたる時、お鍋は先刻より彼方にて人と應接し居たりしが、終 に此處へと一人の男を導き來れり。 『オヽ羽勝か。』 『ア、羽勝君か。』 日方と水野とが同時に聲かくるを、眞面目に受けながら、いつ も變らぬ洋服姿の羽勝は靜に坐して、 『日方!、君はいかんぞ。今此家の婢に仔細を聞いたは。島木 に釘をさ〻れて居ながら、何をするのだ、いかんぞ何樣もー 小野-、久しく逢はなかつたナア。しかし君も無事、僕も無事 で、お互に滿足だ。實は今日日方と約束して、島木と三人で君 を尋ねる筈だつたが、僕は身體が忙がしかつたので斷りを出し たところが、思ひのほか早く身體が明いたので、島木のところ へ行つて見ると、日方は一人で此方へとの事だ。島木は何か商 素上の推算に身を入れて居る樣子で、誘つても氣の無い返辭を するやうになつて居るし、そこで一人で後を追つて遣つて來た が、ひよつとすると日方が言葉に募つて暴な事でも仕はせぬか と思つた通りに、來て見ると果して亂暴の所爲だ。然しまあ僕 に免じて赦して呉れたまへ、何も惡氣では爲ん日方だから。〓 う僕が來た上は暴はさせん、三人で快く靜に話さう。水野、君 は今でも甘い黨の方だらう。小兒欺しだが舶來菓子を少し持つ て來た。此邊には珍しからうと思つて、枕絹とかバタカツ フとかいふ奴を持つて來たが、舟人の酒を強く好かん奴は菓〓 に趣味を有つ癖が出るのもをかしいことだ。さあ日方は飮むな ら飮め、此方は茶で談さう。』 と常には似ず勉めて口數き〻て、白けきつたる此坐を黒めん すれば、お濱は竊と其人を覗ひ見て、正しげなる此の新來の客 に、泣顏見せん事を憂くおもひてや、面を蔽して逃ぐるが如ノ に此處を去つたり。 其四十三 島木の胸濶くして能く人情に通ぜるといひ、日方の心剛にして 飽まで義理に仗らんとするといひ、其他山瀬といひ楢井といひ いづれも我に取りてはおろかならぬ友なが、わけて誰にも彼 にも優りて我が親しく語らひて、眞の兄とも頼み思へるは此の 羽勝なり。其性質の我に似通ひたるところのあるが爲にや、世 にいふ合性といふ事の爲にや、た〓しは眞實前の世に如何なス 因縁のありての事か、他に超えて世話になりなられつしたる恩 義の關係は島木に及ばず、一ツ窓の光を各自の机に分つて、な 文を共に賞し疑義を相質す學問の交りは山瀬に如かざりしか〓 も、た〓何と無く我彼を他ならず懷しめば、彼もまた我を他た らず愛して、分桃の痴れたる情こそは有らざりけれ、斷金のま ことの契は淺からざりしなり。 されど人おの〳〵望む處を異にすれば、彼は一帆の風に萬里の 海を渡つて波瀾淘湧の中に身を托するの船人となり、我は半夜 の燈に幾卷の書と對して寂寞たる小齋の裏に思を錬るの學究ち るを甘んぜるより、相見ざる月日はおのづと多くなり行きしが、 しかも相思ふ心は更に變らず、彼海上にありと知る時は、風の 曉、雪の夕、あ〻羽勝はと此方に思はぬ折も無ければ、富士の 高根も浪に消えて夢ならでは日本の見えぬ異郷の津に在りても 彼方も我を猶思ひ呉れて、他邦の港を目の前に見る繪葉書の、 此岬の下此の水の上に汝の友の羽勝在りと、村居の閑なる机の 上に、天の一方より温き情を寄せ呉る〻こと數〻なりき。 我とはかくの如き中なる羽勝が久しぶりにて歸りしを迎ふる。 會に、一篇の歌をも寄すること無く、數句の語をも交ふるこ 無くして、全く面を出さ〓りしは、水野の胸濟まず思へると ろなりしが、其の事彼の事の煩累に心を取られて、其後も思ひ ながら尋ねさへせざりし其の羽勝に、忽然として尋ね寄られて は、あ〻此人を尋ねでは濟まざりしものを、差當りての苦き〓 もひにのみ惹かされて、我に疎き意の露ありてにはあらねど おのづから人の情を空にしたるやうになりし悲しさ、と其懷〓 き顏を一ト目見るより早く、何より先に我が振舞の勝手過ぎた るが羞しくなりて、正しくは對ひ見る事も叶はぬやうの心地し つ、沼々として日方の我を諫めくれたる其の幾千言を聞けるト りも、我と我が果敢無き戀に迷ひて、此の情の寫く義の強き尊 むべき友に負きたる罪の輕からぬをおぼえ、よし無き想にのみ 沈める昨日今日の我が愚しきをば自ら慚ぢ自ら責むるの情は燈 くが如くに起りて、嗚呼我心裏に物無くして懐しき此の友と今 こ〻に相語らば、如何ばかり今日の團藥の嬉しく樂しからんを、 彼方は相も變らず胸を開きて物語れど、我は人には告け難き私 情を胸に抱き居りて、往時の無邪氣の我ならねば、隔つる氣の 更にあるにはあらねど、水と油との一つになりがたきやうに、 何處と無く奥底なくは打解け難き心地して、言葉に餘る思はあ りながらも、所以知らず自然と我が口の結ばる〻を何とせんと、 水野は私に自ら苦めり。 見れば日方の言ひしに露差はず、生來の沈毅の氣性は浮世に鉛 はれて、いよ〳〵萎まず怯れぬ大丈夫となりたるは、其の額に は曇の絶えて無くて、眼には鋭さの加はりたるにも知られ、眞 峯なれども擧動に威ありおちつきあり、平易なれども言葉に思 慮あり摂酌あるに、あだには月日を經ざりしを示したり。 水野に水野の所思あれば、羽勝にも羽勝の所思ありて、累々メ して喪家の狗のごとく衰へ果てたる我が友の容態をば、しばし 無言にして羽勝は眺めしが、た〓日方のみは思つては言はずに 居ず、一旦は羽勝を憚りて默せしが、堪へ兼ねてか忽ちまた 『水野、』 と一ト聲呼びかけたり。 其四十四 お濱は何處にか去つて復現れず、むくつけき田舍女のお鍋は茲 をもて來りしが、先づ無作法に人々の顏を見渡して、初に羽勝 か前に一盞を薦め、次に水野が前にまた一盞を置き、茶は注〓 て其の盞を滿たしながら日方が前には取りても與らず。 『汝樣は勝手に取つて飮まつせえ。 と云はぬばかりの顏つきしつ、其邊の亂れたるを取片付けて 默つて退き去れば、水野は氣の毒さに堪へずして、自ら茶盞を 取つて日方に與へたり。 日方は此等の瑣事には頓着もせず、感〓に堪へぬ面の色、孵盟 れる眼には露をさへ宿して、 『水野!。もう乃公は一ト通り云ひ盡したから繰り返してまお 言ふのでは無いが、如何に心が弱つたればとて、何といふ汝の 按へ方だ!。迷ふなら迷ふで仕方は無いやうなもの〻、同じ当 ひにもそれぐゝがあらう。何故迷ふにしても男兒らしくは迷は ぬ?。汝の衰へに衰へ果て〻女の腐つたの〻やうに成り果てわ のが、何より彼より情無いは。汝は本より剛強な鐵石の男とい ふのでは無かつたが、外面は柔かでも事によつては、人と爭つ て後へは决して退かぬ、怖しい氣合を含んだ奴で、飜い醋のやう なところがあると、平生乃公が評したほどの男兒であつたが今 は何樣だ。醋なら醋は腐つて仕舞つたのか黴びて仕舞つたのか、 乃公に打たれて抵抗もせぬやうになつたとは嗚呼情無い!。、 れ眼を開いて天地を見ろ!。畫工には畫を教へぬ草木も無い、 男兒を磨かうといふものには我が精神を奮はせて歩を進ます趣 や刺馬輪で無いものは無い!。見なかつたか旨目漢し、氣が注 かんか放心漢!、此家の小娘が何を仕たぞ。齡はたつた十五〓 十六かで、乃公の一ト攫にも足らぬ優しい身體、それでも流石 に日本の女だ、平生一ツ家に居る汝が、乃公に撲たれ辱められ るのを見ては〓然として、身を挺んで〻汝を護つて乃公に當に あの愛らしい美しい眼から、寶石のやうな光を輝かして、眞紅 な顏に血を沸して打つてか〻つたでは無いか!。女性だ、小日 た、屠弱い娘だ。それでさへ一旦激動すれば、此の日方にも取 つてか〻る、それが貴い人間の勇氣だ、人の人たる所以を支へ るものだ。それだのに何だ汝の其の態は!。一少女にも及ばな くなつて、た〓崩折れて萎れきつて居る!。よく彼の娘に對し ても慚死せぬナ。水野!、汝は决して决して本心を失ふやうな 其樣な腑甲斐無い奴では無いが、何樣すれば此樣なに意氣地ぶ 無くなつた。こ〻の娘の擧動を眼の前に見て、よく汝は自分が 羞しくないナ。一少女でさへ彼の通りだ、汝は堂々たる男兒で 無いか、乃公は彼の娘に頭を撲たれたが、汝は精神に鞭を受は なかつたか。苟くも舊の水野であるならば、人一倍物を思ふ〓 の事だもの、必ず感奮せずには居らぬ筈だが、衰へ果て弱り果 てた今の汝は、矢張り首を例る〻ばかりか。此家の娘の健氣な 振舞と、汝の其の萎れきつた状態とを、見比べ思ひ比べると此 の日方は、これほどまでに汝は衰へたかと、汝の衰へ果てた が悲しくて〓が出るー。女にも劣るやうになつたとは餘り情舞 い…。何故迷ふにしても男兒らしく迷つて呉れぬ?。 其四十五 『心を一婦人に苦むる汝を見るのも忌々しいが、勇を一少女に 遜る汝の腑甲斐なさを見ては、あ〻凡骨では無かつた水野某が 如是も衰へたものかと口惜くなる!。島木の言つたことが異寧 ならば、此の日方は全然否認するけれど、そりやあ或は戀愛に 陷るのも已むを得んことか知らんが、何故戀愛に陷つたら陷つ たで男兒らしくはせんり。同じ迷に陷つても、人にも告げず物 を思つて空しく泣き悶えて居るばかりが道でもあるまい。いた づらに遲疑躊躇して、何等の措置をも取ることを敢てせぬのは 大丈夫の最も慚づるところだ。たとひ少々は其の所爲宜きを失 つても、慮つて、斷じて、行つて、着々と事情の展開に應じ 行くのが、男子の敢てすべき道では無いか。猶豫して决せざっ は、軍務では何よりも甚じく惡むところだが、獨り軍人のみだ 左樣覺悟すべきでは無い、何人に取つても遲疑聯躇ほど、其ん を害するものはあるまい。同じ婦人に愛着するなら、水野汝も 男兒では無いか、何故男らしく行動せぬ?。ビスマークは何樣 して其の妻を得た!。烈しく思つた、明らかに求めた、而して 終に得たといふに過ぎん事ではないか。今は其の夫人も世を夫 られたが、我が陸軍大將の某侯が、年も若く身も鄙かつた時の 戀の物語は、虚實は知らぬが汝も知つて居やう。徒然を慰めス ばかりに讀んだ雜書に、文覺の事を記してあつたが、彼を見て 先夜も汝の上を、自然と胸に思ひ浮めた。文覺は全く失敗し、 ピスマークや我が大將は思ひを遂げたが、其の遲疑躊躇して空 に物を思はぬは同じ事だ、飽まで男兒らしく戀をしたのは同じ 事だ、世の小説にあるやうに女々しく月日を經ぬのは同じ事だ。 彼の文覺が云つた言に、戀には人の死なぬものかは、と苦しい 思を白状してゐるかが、水野、汝も其の衰へかた其の窶れかたで は、成程汝も死兼ねない樣子だ。とても其程に迷つたならば、 何故男兒らしく進んでは振舞はぬ?、默つて物を思つても死ぬ なら、何故成敗生死此の一擲と、男兒らしく運命の何を與ふ〓 かを見ぬ?。文覺はた〓我慢ばかりの男では無い、袈裟を〓し た其の後では、辰の刻より未の刻まで、四時と云へば八時間だ 其の八時間を大聲揚げて、荒くれた眼から霰のやうな〓を落〓 ながら泣き通したとある、恐しい情の深い〓烈な奴だ。其位の 奴が手荒い事をするまでには、一ト通りや二タ通りで無く物を 思つたらうが、歸するところ暴でも何でも男兒らしく思ふま に振舞つたのはまた已むを得ん。とてもかくても物を思つて 穏に死兼ねもすまいならば、何故男兒らしくは振舞はぬ?。當 つて碎くか碎けろかだ、〓貫して倒さる〻か倒すかの事だ、首 離ると雖も身懲りず、といふ勢で〓貫して仕舞へ。汝が良い婦 人を得て大將になるか、た〓し文覺のやうな狂僧になるか それは何方になつても乃公は關はんが、何樣せ汝は欲が薄く 高慢が強い、變挺な男に生れて居るのだから、坊主になつて仕 舞ふのも寧宜らう、日方は貧乏でも汝が左樣なつたら、麻の衣 位は寄進して立過して遣る!。汝が衰へに衰へて、一少女にも 其の勇氣が及ばんやうになつて變に死ぬのを、見殺しにするハ は乃公には出來ぬ。男兒らしく振舞へ、女ではあるまい。高が 一婦人を對敵にして、遠距離で彈藥を使ひ盡すのは愚な事だ いつそ一と思に〓貫して仕舞へ。勝つか負けるかの他には物は 有りは仕無い。遠地から敵に勝たうといふのは贅澤な詮義だ。 羽勝も乃公の言ふことを無理とは思ふまい、何樣だ水野汝は何 と思ふり。女々しい事は宜い加〓に止めろ。もう乃公は此限り 物は言はぬ、これだけ言つても乃公の云ふ事を用ゐんならば、 舊の水野になり返るまでは、汝には會はん。』 其四十六 日方の言ふところも無理ばかりにはあらず、思ふて言はざる苦 さに堪へかねては、兎せん角せんと意を動かしたる折も無きに あらねど、おのづからに思ひ切つたる事を何故とも無く做し出 しかねて、女々しと云は〓女々しと云はるべく今日までは過せ るなり。されど差當つて今日方に對つて、其の言葉に從ふべら 意見に就くべしとも云ひかねて、水野は何とも言はねば、羽勝 は徐々に口を開きて、言葉づかひも重々しく、 『水野、默して仕舞つてはいかん。日方の言は或は不當だ、し かし日方の意は親切に他ならんのだ。其言を採ると探らんとは 別として、其親切は十分に受け納れねばならん。無論君は日方 の好意に對して感謝して居るだらうナ。 と優しく水野を誘ひて言はせんとすれど、水野はた〓僞ならぬ 眼色して打點頭きて、然り、と答へたるばかりなり。 「人は人各々の性質がある、境遇がある。深く他人の事に立〓 るのは僕は取らん。日方の親切は僕も有つて居る。たざし日方 の如く自分の意思感情を、君の上に押し被せやうとは僕は能に に。水野!歸つて來てから君の評判をいろ〳〵聞いた。僕は〓 へた。考慮を錬つた。而して君に對して贈るべき或物を得た しかし今の君に對して何を贈つても無盆に終るべきを知つた よつて君に對して何をも言ふまいと思つた。しかし今日方の言 つたところは不幸にして、僕が考へて云はうと思つたところと 止反對の言であるので、已むを得ず誘ひ出されて一言いふ。ロ 方の言を駁するのでは無い。もとより僕が言はんと欲して居た ところなのだ。水野、君は聰明の人だ、僕等は及ばん。た〓、 此の世の中に立交つて、人に接し事に應ずるに於ては齡の多は だけに、僕は私に思ふに君に對しても、必ず一日の長があると 信ずる。僕は書を讀んで理を尋ねたで無い、事に當つて自ら知 つたのだ。僕は人に使はれた。人を使つた。而して人と人との 間の感情といふものが、如何に大切なものであるかといふこ を身に染みて覺えた。而して我が感情に任すことの危害を實驗 した。僕は愚であつたから同じ過失を二度した。三度した。四 度した五度した。幾十度と無く實驗した。而して後纔に我が〓 備を調御することの如何に大切なものであるかといふ事を知へ た。罵らるれば怒る、氣に入れば愛する。それは欺かぬ感情で ある。其の感情に任せて喜怒するを天眞爛〓だなんぞといふ。 一船の中で事端を生ずるのは、何時でも天眞爛〓の人だ。怒ス には怒る理由がある。愛するには愛する理由がある。しかし感 情ばかりが最上なものでは無い。惑情に任すのを是とする人は 船員の中の最も危險な人だ。自分の感情を調御しなければ、自 分は人に使はれることが出來ぬ。自分の感情を調御しなければ 自分は人を使ふことが出來ぬ。自分の感情を調御しなければ、 自分は人に交ることが出來ぬ。人に使はれず、人を使はず、人 に交らずに濟む世間は無い。僕は僕だけの小な經驗だが、しか し確實堅固な經驗から、非常に強く深く感情の調御が人世の最 大必要のものであるといふことを確信して居る。君は聰明絶倫 な人だが、此の點の經驗は或は薄からう。戀愛も是非がない 苦悶も已むを得ぬ。一切の事は謝せんとして謝せぬが天命だ。 風の前面から吹く日もある。潮流の横へと行く夜もある。颶風 も龍卷も起る日は起る。しかし其間に立つて屹然として、我が 正當の處置を取つて行けば死して餘りあるのだ。水野!。君が 君の欺かぬ感情のために死にたくば其迄の事だ。しかし君が君 として世に立たうとした大丈夫の志を忘れぬ限りは、君は君 の感情を調御することを忘れてはならぬ。必ず感情の調御とい ふことを忘れずに居て欲しい。君が文覺の如き人とならんこ は、僕の最も恐れて居るところだ。文覺の如きは僕の蛇掲視す る人だ。しかし僕と日方とは言は異にして意は同じだ。たまヤ ま日方の言に僕の胸裏に觸れたところが一寸あつたので、言は ずとものことを饒舌つたが、二人の言の異るところを忘れて 其の意の同じところをさへ取つて呉れ〻ば、日方も僕も何程〓 ばう!。』 其四十七 羽勝が同情のいと厚くして、而も道理の正きに據れる、其の言 には力あり、其の意には仁有るに、分けて此頃は感じ易くない る水野の、心の中に深くも恩を謝しながら、言はれしことの本 末を思ひ味ふ時、羽勝は復び口を開きて、 『僕の言は或は漠然として、捉へどころの無いやうにも思へゐ う。しかし僕は漠然たることは决して云はぬ。手を下すとこス の知れぬ教訓は僕は嫌ふ。着手するところが分明で無ければ實 務は擧らぬ。收穫の算用を播種の前に爲るのは最も忌むところ だ。た〓感情の訓練と云つても、着手のところを云はねば空言 になる。煩いか知らんが空言にならぬやうに、適切に敢て君の ために云はう。云ひ過ぎて無禮であつても免し玉へ。たとへば 人を思ふとすれば、其の情は胸中に鬱滯して結ぼれる。また例 へば人を怒るとすれば、其の情は心頭に狂ひ立つて已まぬ。そ れを其儘に任せて置けば、我が本分の事は其れがために誤られ る。船夫が思ひも寄らぬ過失をして、不測の〓害を得る其の多 くは、胸中に職務以外の何物か〓〓まつて、職務に放心して居 る時に起る。又一船の平和の破壞は激烈の感情の暴發に基く そこで自分が自分の當直時間だけ、甲板に在つて執務する間は 何等の私情が胸中に在らうとも、それを壓へつけて放肆ならし めぬやうに敢てせねばならぬ。親を思ふは孝子の眞情だ。し し病んで居る親を思つて茫然とした〻め、船の進路を過つて洲 へ上げたでは濟まぬ。職務を執つて居る其間だけは、如何に差 子でも自ら忍んで、親を思ふ情に氣を取られぬやうに、嚴然〓 胸中を清潔にせねばならぬ。湧き上り起り立つ感情を抑制せ ばならん。訓練して我が命令に服させねばならん。これは實務 に身を練るもの〻必ず知つて居るところだ。日方なども必ず經 驗して居るところだ。た〓世に一種の人があつて、おのづかし 感情の訓練を敢てせぬ履歴を有して居る。僕に云はせれば其ん は最も不幸な人だ。直言すれば、水野、君が其人だ。君は美し い感情を有して居て、今までは訓練を要する事がなかつた、み れほど美しい感情を有して居たのだ。その上、感情の訓練の必 要を感ずる如き職務に身を置かなかつたのだ。そこで感情の訓 練の履歴を有して居ぬ、それは慥に大に君を苦めるのだ。感情 は馬だ。鋭い感情を有して居る人は駿馬に乘つて居る人だ。〓 馬は愈訓練せねばならん。然も無けれは、乘つて居るものは危 い目にあふ。水野、君は生來駿馬に乘つて居る人だ。而して今 其の駿馬は無法に走り出して居るのでは無いか。谷に陷るか 崖から墜つるか、淵へ躍り込むか前途が知れぬ。僕等は傍から 見て冷汗を流して、非常に寒心して居るのだ。善く御さなけれ は危險は目の前だ。どうか訓練を敢て爲て呉れたまへ。馬のわ めの人では無い、人のための馬だ。馬は人の命令に服させて、 叩して其の能力を盡させた時、はじめて駿馬の貴ぶべきが知り るのだ。文覺の如きは馬術をも心掛けずして、一生荒馬に乘へ て無法に驅けて、終には撥ね落されて死んだのに過ぎん。僕等 は鴛馬に乘つて居るものだ。君は幸に駿馬に乘つて居る人だ くれ〴〵も云ふ人のための馬だ(馬のための人で無い。どうか 善く鋭い感情を御して、而して君の千萬里を馳驟するところを 見せて呉れたまへ。駿馬のために谷に陷り淵に落つる不幸を目 せて呉れたまふな。』 と諄々として徐に説く時、日方は膝を打つて嗟嘆して 〓 『可矣。確言動かすべからずだ。羽勝の言だけある!。此馬 に臨んで久しく敵無し、人と一心にして大功を成すとい〓、句 の、彼の人と一心といふ四字が響き渡つて、今更強く面白く〓 じられる!。水野、馬をして我が意に從はしめなければならん ぞ。』 と傍よりまた言葉を添へたり。 其四十八 日方が手荒き擧動といひ、羽勝が物固き言葉といひ、皆これ淺 いらず我を思ひ呉る〻朋友の情の眞實なりとおもふに、水野は 泣かぬばかりの面つきとなつて、血の氣も失せたるやうの兩の 〓には、勢無き心の淋しさを現はし、露ばかりも動かざる眼の 中は、一念の沈みきつて一ト處に凝れる状態を示す如く、や、 少時は物をさへ云ひ兼ねたりしが、やがて感激に堪へ得ずして や、さしぐむ〓に聲も弱々と、 『あ〻有難い!、實に謝する!、二君の厚意は决して忘れぬ。 特に羽勝君の教は心魂に徹して、愚鈍の僕にもよく解つた。君 等の親切に激勵まされて、出來ないまでも僕は自ら勉めて過た ぬやうにする。感情の訓練といふ事も屹度敢てする。不幸に〓 し力が足らなくつて、轉んでも倒れても溪に落ちても、轉べば 起上る、倒るれば立つ、溪に落ちても屹度這ひ上つて、目ざ ところまで必ず行かうといふ氣ばかりは、何樣あつても屹度忘 れぬつもりだ。僕に生命の有らん限りは、一日に一日だけ此の 心を懷いて、苦んでも悶えても生存へやうと思ふ、此の僕の眞 の意を汲んで呉れて、何樣か僕を見放さずに居て呉れたまへ。 長く此の僕に君等の友たる幸福を得させて置て呉れたまへ。丑 等は皆優しく教へて呉れるし、自分でも氣が付いて居るし、自 ら克たうとしたり自ら憤つたり、自ら爭つたり自ら鬪つたり 心の中の揉めぬ日も無く、力も根も使ひ盡して今日まで來たが 何と無く行末が物怖しくて、知りつ〻高い崖から深い淵に陷ス やうな時が有はせぬかと思ふ。必ず〳〵其樣なことにはならい 樣に、君等の厚意を空しくせぬやうにと、一生懸命に思つては 居るが、萬一萬々一左樣いふ目にあつても、屹度それきりには ならぬつもりの、其點を水野だと見て呉れて、あれほど諭した のに云ひ甲斐の無い、とう〳〵深みへ落ちた馬鹿な奴だと、爪 拜きして棄てるやうなことを爲て呉れたまふな。餘り愚な事い いふやうだが、た〓何と無く僕の前途に恐ろしい不幸が手を撫 げて、僕の行くのを待つて居るやうに思へる。何樣も左樣思へ てならんので、それで如是なことも言ひ出すのだが、何樣體り 問違つても本來の一心は、君等に對しても决して忘れぬ、其處 をた〓水野だと思つて交際つて呉れたまへ。人の運命の明日は 分らぬが、君等の厚意は夢の問も忘れぬ。君等に負かぬやうに とは屹度努力する。』 と、心に張りのあるさまは猶見えながら、意氣は振はずして誰 鍾と言ふ其の哀れなる樣子を日方は見過しかね、 『なに!、何と無く行末が怖しくつて、不幸の運命が待て居る やうに思へるつて?。何其樣なことが有つて堪るものか。我々 の行末は皆輝いて居る!。我々七人の行末に暗黒は無いのた!( 我が日本國民の前途には暗黒は無いのだ!。燃える火の前に暗 黒が有るかい!。暗黒はた〓過ぎた昨日の事!。生きて居る人 間、燃えて居る火の、其前に暗黒が有るとは誰が言ふ?。そん な事を思ふのは氣の迷ひだ。悉皆汝の衰弱からだ!。しつかり 爲なくてはいかんぞ水野!。喇叭が進めと鳴りやあ敵はもう無 いんだ。大丈夫の向つて行くところには不幸も何も無い。下ら んことをいつてまだ撲られたいか。羽勝の言に從つて努力して 日を送れ。汝の前途の多幸なのは乃公が受合ふ。』 と壯語の有る限りを盡して氣を引立てたる其時室外に人の氣色 して、忽ち間の襖は右左に大く開かれたり。 其四十九 壽長ければ智慧多し。吉右衞門は眼に世の人のそれ〴〵を見覺 えて、水野を今に稀なる若者と悦び、初はた〓高田の依頼に りて寄寓を許したるに過ぎざりしが、後には其の品行を見、其 の人となりを知つて、之を重んずることは主の如く、之を思ふ ことは子の如く、他人あしらひにはせずして月日を過し來れス 程なれば、今本家より歸り來りて、水野が許に訪ひ寄れる人々 の、いづれも表面ばかりの友にはあらずして、水野のために〓 は諫め或は諭す其の一片を、ちら〳〵と耳に入る〻につけ、紫 には日方といへるが如何に振舞ひて、また我が孫のお濱が日左 に對して如何に振舞ひしかをも聞きて知るにつけ、た〓其のま まにはあり得ぬ心地して、不自由なる田合の心には任せねど お濱お鍋に指揮して酒肴を調へしめ、水野が命令の無きにも關 らず、其座に其を持出さしめたり。老人の親切なる心より、出 頃の水野の擧動を愛ひ居し矢先に、我が心を得たる二人の客の 物語をば、一ト方ならず嬉しく思へる餘りなるべし。 何の馳走も無き饗應なれど、膳を配らせながら吉右衞門は笑る つ、 『どなだも邊鄙のところへ好く御來臨なさいました、私は此定 の老夫でございますが、此の兀げたところをでも今後御覺え願 ひます。島木さんには御心易く願つて居ります、折角諸君が〓 來臨下すつたのですから、 と云ひかけて一寸水野を見て、 『お差圖も伺ひませんでしたが、御談話の紫ぎのためばかりに 一獻あげるやうに致しました。田舍の事ですから何もございま せん。おまけに飮酒家の無い家の事でございますから、御惣府 みたやうなものばかりで、氣取も何もございませんが、まあ何 も御笑ひ草になすつて飮つて下さいまし。日方さんへは御謝野 の印と申しましても宜いので、孫めが飛んだ失禮を致しまし が、何樣か御勘辨下さいまし、其代り澤山御酌をさせますから、 ハヽヽ。これお濱こ〻へ來て御謝罪を仕ろ。』 と云へば、其の背後に小くなり居しお濱は、面を染めて是非無 く頭を下げんとす。日方は老父の言を心地快げに聞き居しが 『ハヽヽ。君、なに、謝罪らんでも可いさ。お濱さんといふか ね、好い氣象の娘さんだ。日方八郎生れて初めて頭へ手を上げ られたが、打たれて怒るどころではない、全然感心した。日本 の婦女は誰も彼も、お濱さんのやうな氣合で居て欲しい。偉い 娘さんだ、好い氣象だ。祖父さんに何か云はれたつて頭なんか 下げてはいかん。其代り御酌は御遠慮無しに願はう。ハヽヽ。」 と無邪氣に制し止めたり。 『左樣仰あつて下されば先づ老夫も助かります。何樣か御機擔 好く御談しなすつて。兀頭は古風物で時代違ひですから、御若 い方の中では氣が退けてなりません。御免蒙りますから御寛に と。』 『イヤ左樣で無い。君は中々話せる。い〻ぢや無いか老翁、 こに居たまヘナ。』 『ハヽ、有り難うございますが萬一何樣な事でか叱られまし て、若し御卷骨を頂戴しますと、兀頭は特別に利きますからナ。 まあ引退つて居る方が無難でございます。ハヽヽ、イヤこれは 冗談を、失禮いたしました。』 吉右衞門は終に彼方へ去れば、日方は羽勝と相見て笑つて 『好い老夫だナア。如何にも奇麗な輕い調子で、そして親切に 滿ちて居る、透徹るやうな人だナ。 『左樣だ。まだ我々の及ばんところがある。』 と評し合つて樂しげに酒盞を擧げたり。 『ハヽヽ、乃公ぐらゐ能く飮む奴はあるまい。何だか老人が出 て來たので甚く氣が和いで、何程でも悠然と飮めさうなやうな 心持になつて來た。』 其五十 言はねども花あれば野は自から春なり。あどけ無きお濱一人の 交りたるに一座は和ぎて、理屈を離るれば談話に角無く、笑藤 漸く起れば酒の味饒く、謹嚴の羽勝、沈鬱せる水野さへ、何時 か六七年の往時に復りて、心は若く氣は易く語らへば、まして 日方は興に入りて、羽勝の斥けたる天眞爛〓、醉態淋漓として 受けては飮み受けては飮み、 『島木、馬鹿野郎、一緒に來れば宜いのに。金儲に忙しがつお つて何になるものか。』 と幾度か繰り返して罵つては、又餘念も無く二人を相手に談笠 して盃を手にしたり。 『お濱さん、その色の黒い眞面目老夫の羽勝に飮ませて遣つ一 呉れたまへ。コラ羽勝!、飮まんかい、水野の妹の酌だ。ハ ハ船では成るべく酒を用ゐん習慣を付けて居るから飮めんなぞ といふのは虚言だらう。船員は大抵善く飮むといふぞ。 『イヤもういかん。虚言では無い、船では成るべく用ゐんやう にして居るのだ。執務の不確實になる基だから飮酒は忌む。〓 れは海員の精神の進歩した趨勢で、古來の海員の飮酒に耽つれ 惡習を洗ふ任は我々の肩にあるのだ。だから實際僕なぞは餘り 用ゐん。しかし非常な暴風雨の時、襯衣まで濡れ浸りながら困 苦極まる勞働を仕た後などでは、水夫等にも少量の酒類を與へ、 自分等もまた聊か用ゐる。その味はまた君等の知らんところだ。 烈しい怖ろしい風、酷い痛い雨、眞黒な天、荒れ立つ水、造物 主が其の偉大な働きを見せる大洋の上で、木の葉にも等しい孤 舟に立つて、た〓我が堅確な意志と智識の判斷とのみを我が味 方にして、あらゆる試みに耐へて奮進して行つて、終に其の試 のに打勝ち果せた時、ラムでもジンでも日本酒でもの、一小〓 を手にして自ら稿ふ其の一種の言ふべからざる感じは海員で無 くては解らん。陸上の料理屋やなんぞで飮むのとは全然異ふ味 かする。僕はに〓其樣いふ怖ろしい暴風雨の後なんぞに、濕氣 拂ひのため、疲勞の回復のために、飮む時ばかりは眞に酒を當 するが、其の他の時には左程好まん。もう澤山だ。大分醉つた。』 「然樣固くばかりいふな、さあ一盃遣る。見ろ、お濱さんが眼 を丸くして、一心に君の暴雨風の談話に聞き惚れて居る、其の 罪の無い純潔な樣子を見ろ。此の人が勸める酒を飮まんといふ 事があるか。』 水野はこ〻に至つて自から微笑を催し、 『羽勝君、まあ一つ過して呉れたまへ。魯敏孫漂流記を讀んで 非常に感じて、魯敏孫と一處に棲みたいといつたほどの崇拜者 となつて居る、航海者好の其人の御酌だら。』 と前の夜の事を思ひ起して語り出づれば、 『あら、よくつてよ先生、餘計な事を。』 とお濱の打消さんとするが如く言へると同時に、日方は笑まし げに、 『何だ、魯敏孫の崇拜者だ!、こりやあ面白い。偉い!。然樣 來なくちやならん、其で無くちやいかん。實に愉快な人だ、頼 もしい!。成程日方が頭を撲られたのも無理は無いは。ハヽヽ 君のやうな人になら、もう少々打撲られても關はんは、あ〻而 白い。水野猪口を與せ、さあ魯敏孫夫人御酌を願ふ。 と打興じたり。 されど羽勝は冷然として、た〓お濱をば一瞥せしのみ、水野に 對つて物靜かに、 『海國の口本の事だもの、魯敏孫漂流記に興味を感ずるやうな 女子の出て來て呉れるのは當然の事だ。僕は此席にさへ此樣は ふ婦人を見る世に、まだ海國の日本の詩にも小説にも、海に關 したもの〻甚だ少いのを遺憾に思ふ。水野!。今年中には島木 の船を何樣しても出す。僕は無論全權を有つて出掛けるのだ。 何樣だ、君一つ奮發して海上に出んか。决して危險なんぞは有 るもので無い。好い機會だ、大洋の美觀壯觀を君の眼に入れん か。茫々たる大洋の大な景氣の中へ出て、人間の紛々たる葛藤 を逃れて、直接に造化の懷中に寢て見んか水野。たしかに君の 知らん心持が爲やうぜ。』 と豫て考へ來りしことにやあらん、思ひのほかなる點を沈着い て云ひ出しぬ。 其五十一 水野の答へに答へかぬる時、羽勝はふた〻び言葉をつぎて、 『實は遠洋へ出る漁船などでは、便乘者を特のほかに迷惑がス のだ。しかし君が好むならば僕は勸めても乘せたい。君を大洋 の中へ引出したい。いろ〳〵の人爲の複雜な組織で、自然の眞 趣を蔽ひ盡してゐる陸上から君を離れさせたい。直接に自然の 前に出て貰ひたい。直接に自然の詩卷を讀んで見て貰ひたい 僕はよくは詩を知らん。しかし僕が知つて居る自然は、僕の知 つて居る一切の詩とは甚だ遠いものだ。僕は自然の或者を解ら て居る點に於て詩人に勝つて居るとは信せぬ。た〓し。海上に關 する詩の甚だ淺薄なのは感じて居る。若し詩想のある人が大洋 に浮んで、自然の廣大な背景の前で、人間の自から抱く感じを 味つたら、在來の詩のやうなものばかりは出來て居まいと思ふ。 まあ想つても見たまへ。彼方から此方へ歸る路の、太平洋の眞 中あたりで、僕がたゞ一人舷頭に立つて居たことがある。丁座 月は眞珠を溶かしたやうな光を投げて一切を包んで居る。其の 中を走つて居る自分の船は何處へ行くのだらう。行く先も見え ん、來たところも見えん。た〓淡い光の滿ちて居る天水の中を 歩いて居る。海は絹毛〓のやうに滑らかで美しく廣がつて居る。 柔かい〳〵しかも心の正しい貿易風は、恩愛の溢る〻ばかりの 慈母の手から出る團扇の風が、睡て居る嬰兒の顏へ當るやうに そより〳〵と後から吹いて居る。帆は一ばいに張られたま〻で パタリとも動かぬ。休番のものは皆〓睡して居る。當番のもの も、こくり〳〵と遣つて居る。一切の用事は皆忘れられて居て、 胸の中にも頭の中にも何も無い。何一つ耳に立つ音も爲無い。 何も見えん天と水との間を茫然として見て居ると、何時かもう 自分の身體も消えて仕舞つて、矢張眞珠の溶けたやうな月の光 と一緒になつて、大空の中に流れ瀰つて居るやうな氣がする。 左樣いふ心持の仕たことがある。其の時の僕の心の中の味と ふものは、とても僕の口では云ふ事が出來んが、あ〻若し自分 か水野であつたらば、屹度此の美しい何とも云へぬ感じを、〓 子に現して人に示す事が出來るであらうものをと、深く其の時 に僕は思つた。何樣だ君一つ海上に出て自然が君に何を與へス かを試みては見ないか。必らず君を盆する事は少く無からう。 凪は凪で面白い、暴風雨は暴風雨で面白い。海上の生活も半歳 位は宜からう。小な屋根の下から飛び出して見ないか。大熊星 の光は北で待つて居る、十字星の光は南で売爾ついて居る。大 い〳〵此の天地では無いか。米粒に文字を書くやうに、細い〓 ばかり考へ込まずとも、其の米粒は姑く傍へ置いて、自然の大 な景色に親しんで見ないか。何樣だい水野、何と思ふ?。君が 嫌なら仕方は無いが、學校の教師も〓よからう、一つ遊んで見 ては何樣なものだ〓。』 と、勉めて水野の意を動かさんと心長く説きたるは、全く心搆 へして來りしなるべし。 羽勝の意の解せぬ水野ならねば、少からず其の話に情を動か〓 て、まことに趣味多かるべき海上の生活を試みたきやうの念も 起る傍、羽勝が我がために思を費して、か〻る事を勸めくる〻 其意を感じて、嬉しとも忝しとも胸の中には、幾度か感謝〓 てまた感謝しぬ。 されど水野は今こ〻に其言に臨はんとも云ひ兼ねて、仰と應 んと思ひめぐらすを、見て取りて羽勝は言葉緩く 『何も今君の返辭を求めるのでは無い。船は凡そ十二月に出ナ 心算なのだから、それまでは間もある、ゆつくり考へたまへ 若し其までに何樣な事でもあつて、海へ出たいと思ふやうな事 もあつたら、いつでも相談に乘る、悦んで應じる。大洋を〓 るのも宜からうと思ふよ。』 と少しも無理強の氣味無く云へば、 『賛成だ、大賛成だ。大洋生活を遣つて見ろ、水野。女の傍な んぞにへばり着いて居ないで、飛び出せ、羽勝と一緒に行け、 お濱さんでさへ魯敏孫と同棲しやうといふ氣〓が有るぢや無い か。』 と日方は却つて強ひ立てり。 天うつ浪第二終 明治三十九年六月十二日印刷 明治三十九年六月十五日〓行 〓 〓作者幸田成 〓3市日本四四丁五〓四 發行者和田む 第〓日本〓〓〓町〓 即刷者金澤求也 東〓日本得は〓四丁日〓 發行所春陽堂 電話本局五一番 *市ヨ本〓〓〓町番〓 印刷所東京印刷株式會社