OCR結果テキスト(改行・誤字訂正なし) 天うつ浪 釈しきが中の絶えて久しくして相會ひたるに、痛飮快談して歸 るを忘るゝ日芳を、幾度か羽勝の促し立てゝ、漸くに二人の暇 を告げし時は、日は既に暮れ果てゝ一時間餘も經たり お濱お鍋は後片付に忙しく、水野は獨り机に憑つて醉を吐き( つ、飮み慣れぬ酒に聊か苦みて、〓に微温き茶に〓を癒しなが ら、羽勝が言ひたる海上の生活の如何に趣味あるべきかを想ひ 遣り、或は又飜つて日方が我を撲ちたる時の勢の烈しかりし ことなどを思ひ廻らす折しも、日方が引き出し散らしたる我〓 記は我が膝近くありて、其の裏面に我が落書したる萬葉の幾首 の歌の、横に、縱に、逆さまになりて我を慰むるが如きが偶然 眼に入りたり。 唐討は好みて誦すれども和歌には疎き日方の、いづれも此は古 き歌なるを知らで、我が詠じたるものゝやうに思ひ込みて我を 扇りしが、言ひ解かんも煩ければ其儘に寃罪を負ひたる、其事 も思へは何か厭はしかるべきや、歌は皆他の歌ながら、詠まれ たる思は我が思なるをと、凝然と見入りつゝ、文字を辿りて、 久方の天つみ空に照れる日の亡せなん日こそ我が戀止まめ、と 心の中に自ら讀みたり。 醉に我が心は蒸さるゝが如くにして、身の筋は弛み骨節は和い て快く〓きやうなるに、精神は何にか憧るゝ、空に浮きて止ま す、たヾ〳〵我を笑ますに足るものを得て、面白く破顏して算 みたきやうの氣のする水野は、明らかに此を酒のさする事と知 りながら、頒我が心の自然と動くに任せて、何とせん念慮も無 く恍然となり居たり。 珍らしくも水野の面は暖げに微紅色に、其眼は優しき光を〓 へたれど、例の癖の物思に耽れるかと見えて身動きもせざるに、 此方に入り來れる吉右衞門は 「御酒の後ですから御考へ事は毒です。些御話でもなさいませ んか。日方さんと仰ある方は結搆な方ですが、軍人で在らつし やるだけに荒い方ですネしかし羽勝さんと仰ある方でも彼の 方でも、皆心底から貴下を思つて居らつしやる、眞實に結搆な 好い方々です。御氣に入らない事も仰あつてゞしやうが、何す 彼も皆御親切から出た事ですかう、御氣に御止めなすつて惡く なんぞ御考へなさらないが宜うございます。」 と言ひたり。 古右衞門は水野が身動きもせで物を思へるを、胸の中に羽勝日 方が振舞言語を忘れ兼ねて繰り返し繰り返せると猜したるなス が、かく云はれて水野は我に復りてハツと驚きぬ。實に我は今 此老人が言へるが如くに、羽勝日方の我に與へたる數々の言葉 に就いて物をこそ思ふべき筈なるに、我は今抑何をか思ひ居し 羽勝が言ひし海の上の生活に就いて歟。あらず、海の上などの 事は既に思はざりき。日方が我に加へし鐵拳に就いてか。あら す、日方が事などは既に忘れ居たりき。我は我が胸の中に何を 思ひ居たりしや我は今日日方に逢はず羽勝に逢はざりし前、 大士堂前に圖らず相會ひたる彼の物優しきお龍を思ひ居たりー なり。如何なる人の憐みをも惹かんとも思はざりし愚なる此の 我がために、我が思へる五十子の病の疾く癒れかしと、日々〓 歩を運びて祈りて呉れしといふ優しくも優しき彼のお龍をば思 ひ居たりしなり。其の親しき友なりといふ驚くべき美人-年 は既に三十に近かるべきながら人を驚かす美人の、扮裝も極め て立派なりしおとうとやらいへるより、お龍が悲しき身の上を 朧氣に聞きて、終に堪へ得で、我は〓を澱ぎて泣きたりしが、 其憐れなるお龍をのみ思ひ居たりしなり。美はしく清かりし戀 の誠の、人の爲りに情無く廢りて、狂ひに狂ひ、悲みに悲みた る末の其の女の、苦しき思ひに疲るゝ我を憐れと見て、猶有ム 餘る優しき情を傾けて我に寄せくるゝ其の行爲はかりに樂無も 今の自己を自ら慰むるといふ薄命のお龍をのみ思ひ居たりしな り。我は我が迷ひて泣き、苦みて悶えたる心の閣に、優しき光 の線を投げ呉るゝ星を認めし心地して、我が其人に會ひしをば 滿心に悦び愉びつ、我が懷しきお龍をのみ思ひ居たりしなり 其一 思はんともせずして思ひ居たるは、心の其に染みたればなるべ し。されども吉右衞門に話し掛けられて、水野は忽ち覺めたる 如く、 『惡く思ふなんぞといふ考が何樣して私に‥‥。羽勝だつて口 方だつて皆私の兄同樣なのだもの!、何を言はれたつて惡く取 つたり氣に仕たりするやうな事は有りは仕ないので。私は今た だ〓然として居たところでした。いや今日は大〓御世話でした お蔭で一同悦んで歸りましだが、あれを殘らず御厄介になる理 由はありませんから、せめて御酒だけも私の分にして、 と云ひ掛くるを主人は悦ばぬ氣なる顏して、 〓『また水野さんの他人行儀がはじまつた。几帳面過ぎて厭氣が さします。宜いぢやあ有りませんか些細の事ですもの。』 と打消しつ、 『それは左樣と先刻老夫が高田さんに逢ひましたら、水野さノ に一寸來て貰ひたいことがあるから然樣云つて呉れ、他人の居 ない時會ひたいから成るべくば今夜あたり、といふ御談でごヤ いました。御洒氣は大分御有んなさるけれども、貴下の事です から宜うございましやう。更けない中一寸行つて居らつしやい ませんか。』 と云ひ出したり。 高田は我が職を奉ずる學校の長にして、吉右衞門とも心易き里 なれば、水野は更に考ふるまでも無くして、 『何だかさつばり分らないけれども、其樣なら一寸行つて來ま しやう。 と答へつ、吉右衞門がお濱を呼び立てゝ、提灯をと云ふを、そ れにも及ばずと制め、たヾ緩に帶締め直しゝのみにて立出でた り。 同田が家は學校の直後面にて、農家造りにてこそはあらね、趣 外も無き平々凡々の住居なるが、主人も其家に相應しき平々〓 々の、何の奇處も無き五十男にて、農夫にてこそはあらね、而 白味も無き氣の小なる謹直三昧の人なり 半白の髮の毛は割合に多かれども、光澤無く黄色に〓せきつた る顏の、口の傍の絛文、額の皺など目立つて深く、光無き小な る眼、骨立つて高き鼻、おちつきの無き起居動作、活氣の無も 物の言ひぶり、すべての乾燥びたる状態は、如何にも能く此人 の、『人の子を誤るが如き強き人』ならで、一決して人の子を害は ぬ古りたる教育家』たる事をば現し示せり。 高田は今水野の來り訪ふに會ひて、一昨日も昨日も會ひたる同 士なるに、三年四年も隔てゝ面を見たるものゝ如く、恐懃に時 候の挨拶など管々しく仕て、三十匁ばかりの廉價茶を事々しノ 湯を冷ましなどして入れ、隱れ簑、隱れ笠、打出の槌なんどの 〓盡しを描きたる水金の光り爛々とする菓子鉢に、三月も前よ り盛られし儘かと想はるゝやうなる最中の月の淋しげに干縮り たるを、 「何樣ぞ詰らんものですが御摘みなすつて。 と円嚀に薦め、何時用事を云ひ出すべき氣色も無く、興も無き 世の噂、他所の事をのみ、熱心も無く氣〓も無く、温和に冷静 に打語りたり。 水野も初は護み居しが、終に堪へ得ずして口を開き 『山路の老人に御言傳でしたので出ましたのですが、御用を何 樣か伺ひたいもので。』 と促すが如くに云ひ出づれば 「イヤー、何樣もハヤ詰らん事で、 と〓落らしく右の手を上けて頭髮を撫でしが、やがて然も〳〵 決心したりといふやうに眞面目になつて自己が膝を見詰め 『水野さん決して御怒りなすつてはいけませんよ。萬已むを得 んから是非無く御話しを致しますがネ。これも小生の地位か〓 致しまして詮方が無いので、何樣か惡からず御解釋を願ひま〓 のです。實は下の御評判が甚だ思はしくないので。イヤ小生 は何所までも貴下を信じて居りまするから、他が何と申して〓 關ひませんが、何樣も種々の事を申しまするので。ハヽ、世 間といふものは煩いものでしてナア、信仰の自由といふ事は嚴 然と許されて居りまするのに、貴下の事を妄信に陷つたの何の と申しましてナ、其は又斯樣いふ理由からだの彼樣いふ仔細か らだのと下らん事を云ひましてナ、それで何樣も兎角小生の耳 「煩い事が入ります。就きましては小生が考へまするには、〓 下も其ては生徒の父兄の手前や何ぞ、どうも教職を御執りなさ り難いやうな譯ですから、一應此村の校の方を御退きなすつて 頂いて、他の校へ行つて頂いた方が貴下の御利盆で、又延いて は校の爲にも聊か利盆かと勘考致しましたです。御轉校の事は 貴下の御不都合にならんやうに、必ず小生が取計らひまするか ら。』 と、辛くして云ひ出したる其の眞意は、我をして職を辭さし」 んといふことなりけり 高田は重大の事と思へるなるべし、水野は斯ばかりの事かと玉 より輕く思ひて、 『解りました。早速御諭しの通りに致しましやう。」 〓と心易く答ふれば、高田はホツト息をつける樣なり 其三 我が職務を〓む意などは露ばかりも有らざりしが、もとより。 生を其任に委ねんとも思はざりしなれば、水野は難る色も無く 蝋を辭せんと云へるに、高田は我が意の通りたるより胸は安く せしものゝ、却つて又對手の餘りに未練氣無きに薄氣味惡く、 〓念らしく小き眼を瞬きて水野を見居たり 『しかし水野さん決して御不快に御思ひなすつてはいけません 何樣か感情を害して下さらんやうに願ひます。小生は何處迄に 貨下を信じて居るのですから、貴下に校から離れて頂きたい心 は更に無いのでして、長く貴下と圓滿な御交際を繼續いで參り たいのです。貴下は失禮ながら學力は御有りなさるし、なかな ル長く小學の教師などを仕て居らつしやる御仁では無いのです か、差當つて校の方を離れて戴いては御困りでもございましぬ っから、小生は小生の費下に對する眞情を表して、貴下を他所 の校へ御周旋致しましやうと存じて居ります。何樣か小生が書 下に對する敬意を御汲み取り下すつて頂きたいもので 、是もまた三十匁の茶を入るゝに湯を冷まして後にするが加 く町瞭に言へば、水野は他に〓まれじ恨まれじとする心遣ひの いと明らかに見ゆる此の半白の教育家を、憫然に思ふやうの情 も起りて、 「はい、有り難うございます。御高情はまことに有り難うご います。御言葉に甘えまして何處かへ御周旋を願はなくつては ならんのですが、しかし小生は何樣も教鞭を執るには適せん〓 うに思ひますから、差當つて他所の校へ參りたいとも存じま んです。御厚意は何處までも有り難く存じますけれども、當分 は遊んで見たいと思つて居りまする。それでは辭表は明日早速 差し出しまするから、何分宜しく御計らひを願ひまする。」 と、飽まで謙退して柔和に應へたり。 水野が面に怨氣をも盛らずして、平常の如く何氣なき言の調子 に職を辭せんといふを聞き、高田はやうやく荷を下したる心地 してか、 『ヤ、それでは當分御遊びも宜しうございましやう。疾から小 生は貴下を目して、蛟龍永く池中のものたらずと申して居りま したのです。ハヽ、。何樣か今後何分御見棄無く御交際を願ひ まする。』 と可笑くも無きところに磊落めかして妙に笑つて、最後には改 めて肱を張つて堅くろしく頭を下げて一禮すれば、水野も是非 なく禮を返して、 『いや今後の御交際は小生の方からこそ願ふべきで。では今日 はこれで失禮致します。」 と恐懃に挨拶して辭し歸りたり。 區々たる職と些々たる俸給とは、之を得るも之を失ふも一顰 笑にだに値せずと、水野は其事を繰り返しても思はず、たヾ婦 微に殘れる醉を吹く風の薄寒きを覺えつゝ歸り着けば、お濱け 待ち兼ねしが如く飛で出でゝ、茶の間に迎入るゝや否や、滿而 に笑を輝かしつ、他人には何言ふ間をも與へずして、 『今先生と入れ違つてネ、彼の尾竹が變に威張つて遣つて來ま してネ。とう〳〵此方のものに仕た、もう大丈夫だ、もう屹度 保證ひます、もう宜うございます、もう是からは快癒るばかり てす、必ず五十子さんは本復するといふ見込みが立ちました。 水野さんに十分悦んで貰はなくちやあ、と云つて今まで饒舌へ て行きましたよ。嬉しいのネエ先生。妾嬉しくつて!。ほんし に妾嬉しくつて〳〵!。』 と急きに急きて喜悦の音信を傳へたり。 お濱は我が此の言葉を聞くと齊しく水野の如何に悦びて笑むな らんと思ひ設けつ、心樂みにして水野の面を差覗けるに、悦び 極まつてか其人は笑まず、目のあたりに神佛をも拜めるが如き、 敬みに敬めるが中に和しさ兒ゆる面になつて、抑々何をか見詰 むるや頭を斜に、物も無き空中を凝然と仰ぎたるが、見る〳〵 動かざる其の眼の中よりは、汗々漢々として〓の溢れたり。〓 び〓とはこれなるべきにや。 其四 〓相良にも尾竹にも囘復の望無しとこそは言はれざりつれ、十に 六七までは危く思はれたるらしき徴には、變状さへ無くば、變 状さへ無くばと、遁路のある保證の仕方を爲れたる、其の重き 病に惱みし人の、今は必ず癒るべしとは眞實の事なりや、覺 めての後の口惜しかるべき夢の中の果敢無き悦びにはあらざる や。あゝ、夢にはあらず、確に現なり、虚妄にはあらず、確け 眞實なり。かつては人の運命の頼み無きを悲みて、訴ふる方無 き我が思の、空しく流水に描く文字となつて消ゆべきかを歎き しも、今は天地の間に愛情有り道義有つて、神明佛陀の慈惑の 御皆は人間の上を離れず、愛護の御手は一切の衆生を攝取し て捨てざらんと仕玉へることを思ひ奉り、愚しき一念の誠を籠 めて、他人には言へぬ心中の秘事に、あはれ彼の人の譯の無る に定まれるならば、我が生命を〓ぎ縮めても助けさせ玉へ、 かる道理無き願ひを掛け奉ることの、愚にも恩なるをば知らぬ にはあらねど、知りて猶已まんとして已み難き胸の苦しさは、 御覽はさぬところ無き神明佛陀の見透したまひて、憫然とも田 して我が心をば納れさせたまへ、と祈りたりしが、彼の人の〓 命の本より有りしか、我が命の彼の人の命を補ひしかは知らず 大旱に萎れし玉苗の、一夜の露に蘇つて、田面を渡る曉風にけ 猶弱々と戰ぎながらも、はや行末の頼もしき榮を見する其の色 の青々と勢好きが如く、危くも心細かりし病の瀬を過ぎて、全 く復現世の光に美しう照らさるゝやうになりし彼の人の運の目 出度さ、我が心の嬉しさ。思へば神明も佛陀も確に御坐す世な り。人間を包める運命は雲霧と冥くして得知れねども、其中に 神明の御心佛陀の御心は動き働きて、人間の抱く心のさまに酬 ひたまふやうの氣ぞする。冥々の中に靈しき力ありて神佛の意 を受け、吉も凶も皆其力の爲る事のやうにぞ思はるゝ。神明ま 遠からず、佛陀も遠からず、一念の微なる動きも洩らさず知り たまふと覺の。嗚呼、神明も佛陀も猶御覽はせ、我が心の誠を 邪無く、汚無く、僞無く人を思ひて、我が如何にしてか有り果 つべき我が世の末を見んとぞ思ふ。實に地を掘れば水に逢ひ、 壁を穿てば光に逢ひ、人の心の奧に入れば必ず神明佛陀に逢ひ 奉るものと云へるも言ひ得たることかな。我今幸にして眼 のあたりに利生を仰ぎ得、冥々の中に御坐して果敢無き此の恐 を愛しみたまふ大慈大悲の御心の忝きを感じて、此の嬉しさ 有り難さ肺腑に浸み徹りぬ。願はくは我長く此心を失はずして 頼み奉らんほどに、猶行末掛けて彼の人の上に幸福多からしめ 給へ。我が身の幸福をば祈り求むればこそ、たヾ彼の人好かれ とのみ思ふこゝろの、此の虚僞無き眞實を汲ませたまへ、と水 野は默念したり。 其夜水野は何事を思ひつヾけしにや、更くるまで終に睡りにス らで、二番鷄の唱ふ頃辛くも夢を結びぬ。たゞ思ふ人の病の快 き方に向へるを悦んで、おのが職を失へることなんどは悔みも せざりしなるべし。 其五 お濱は可笑さに堪へぬ如く笑ひを耐へながら、 『マア如是に〓く起きて置いて、而して變に沈着いて居らつし やるの子。先生、今日は日曜ぢやあ有りませんよ。早速となさ らないともう遲れますよ。彼人が快いもんで安心して仕舞つて、 それで全然氣が弛んで御仕舞ひなすつたの?。妙に今朝はゆ( たりとして澄まして居らつしやるのネエ。何樣なすつたの?、 餘りだは!、をかしくつてよ。」 と戲るゝが如く云ひしが終に堪へかねて、 『ホヽホヽヽヽ。』 と笑ひ出したり。 夢の名殘を洗ふ朝茶の淡き味を樂みて、悠然として湯呑を手に して居たりし水野は此の笑に驚かされつ、實に我が心の中の昨 日に今日は甚く異なりて寛なれば、外に現るゝ身の樣子も、仙 には可笑しきほど變れるなるべし。特に掌上に乘るばかりの〓 少なる俸米に繋がれても、職務と思へば其職を疎畧にせん心は 無くて、身體の疲れきつたる時にも、氣合の如何にしても進に ざる折にも、強ひて勉めて果すべきだけの事を果したる、其の 苦しさを今は免れて、起きるも睡るも心のまゝの、肩に荷は無 き境界となりたるを、まだ知らねばお濱の怪むも無理ならずと 微笑まれ、 「ハヽ、何も可笑いことも何も有りは仕ないよ。今日はもと 學校へも何へも出やあ仕ないのだもの、いくら沈着いて居てリ 可笑い事あ有りやあ仕ない。」 と輕く答へたり。 『ぢやあ今日は怠けて御休みなさるの?。嫌な先生ネエー、〓 故御休なさるの?。』 『なあに怠けて休む譯ぢやあ無いが、今日ツからは私にやあ毎 日日曜なのだ。だからもう先生〳〵つて云ふのも止して貰はな くつちやあ。仕方が無いから今までは呼ばれて居たけれども、 先生〳〵つて云はれるなあ、先から私あ好きぢやあ無かつたの だからネ。』 『あら、それぢやあ學校をもう御止しなすつたの?。』 『あゝ。〓田さんが止したら宜からうといふから止して仕舞ふ ことにした。』 「何敬高田さんが其樣なことを云ひ出したの。〓らしい高田さ んだことネエ、何故先生に御止しなさいつて云つたの?。』 問はれては流石に勇んで答ふべきならねば、水野は唯默然とし て笑つて語らず。 『昨夜高田さんところへ入らしつたのは其の事でしたか。」 「あゝ』 『ほんとに可厭な高田さんだこと!。可いは、祖父に左樣い○ て叱らせて遣るは。左樣して復先生を舊の通りにするやうに爲 せるは』 「ハヽヽ。折角丁度止して仕舞つたものを、其樣な世話を燒か れちやあ却つて困るよ。打棄つて置いて呉れ無くちやあ。 「だつて、それぢやあ先生は、何處か他所へ行つて御仕舞ひた さるんでしやう。此樣な詰らない村にやあ居て下さらないでし やう。屹度妾の家を出て行つてお仕舞ひなさるんでしやう。」 と云ひさして水野の面を凝然と見居たりしが 『嫌だは、嫌だは、妾嫌だは!。祖父に左樣云つて高田さんを 叱らせるから宜いは。』 と眼に露持つて腹立しげに悶えたり。 「ハヽヽ。祖父が何程幅利でも、高田さんは高田さんだから、 左樣自由の利くわけのものでも無い。また私は今何處へ行くと いふことも有りや仕無いから、矢張いつまでも此村に居るつも りだよ。』 『眞實?、眞實?、矢張いつまでも此家に居らつしやるの?。 『あゝ。別に何處へ行かうと云ふ料簡も無いから。』 『嬉しい!。それぢやあ學校へも出ないで始終此家に居らつし やる。あゝ、そんなら學校なんか先生が止し仕舞つた方が宜い は。澤山先生が此家に居らつしやるのだから。今後また先のや うに種々の面白い御話を仕て頂けるはネ。』 人の胸の中は更に知らず、飽まで我儘なる處女氣の長閑さに、 水野は笑つて點頭かざるを得ざりき。 『これでもう淺草へも行らつしやらないと、眞實に好いのだけ れども。』 猶不足氣に如是云ひて婿然と笑める面つき、また無く美し 其六 罪も無く念も無きお濱の願の是の如きには引かへて、水野が今 朝差當つて先づ思へるは、淺草の御堂に詣りて心靜かに報恩謝 徳の誠意を運び、かつは猶行末を頼み奉らんとの事のみなりし なり。 されど淺草に詣らんと思ふ意の側には、強ひて求むるといふほ どにはあらねど、若し機會よく我が御堂に詣りてより歸るま」 の間に、彼の同情深く信心深き優しく懷しき不幸福の人に相逢 ふことを得ば、願はくば相逢ひて一ト言二タ言の言葉をも交へ たきやうの念も潜めるなり。昨日の談話にて、其人の詣るは、 毎日大抵午前の事にして、午後に詣でしは昨日のみなりと知り たれば、職務に縛らるゝ身の午前は我が自由ならで其人に再び 行逢ふことも無かるべきを遺憾く思ひ居たるが、昨日に今日は 變れる我が上の、今は何時參らんも心の自由なるまゝ、先づ彼 の人の詣るといふ午前に詣りて、幸にして若し相見ゆることを 得たらんには、我が五十子の病氣の本復疑ひ無きに至りたる事 をも告げて、御佛の加護を悦び、彼の人の親切を謝しもせんと の念の潜めるなり。優しく懷しき彼の人に、我が五十子の甚宿 きところを免れて、復び現世の日に照らさるゝに至りしことを、 人を吸ひ入るゝが如き其の愛深き笑顏に悦び欣びて貰ひたき念 の潜めるなり。 水野はお濱が假初の語には耳を假すことも無く、やがて淺草さ して立出でたり。 幾度か往來し馴れたる路の、眼に古りたる景色は心の留まる右 も無くて、早くも御堂に到り着きたり。先づ常例の如く祈念を 寵めて、少時は何事をも思はざりしが、念じ終りて閉ぢたる眼 を開き、下げたる頭を擡げ、身を起して我が居たる四邊を見れ ば、夢の裏に現れ來る人の造音も無く衣の音もせずして俄然〓 我が前に湧き出づるが如くに、何時か知らず、我が傍に跪きて 御佛を念ぜる人ありたり。其の柔かに合せたる掌の白々と殊勝 氣なる、其の〓のすらりとして見好き、其の髮のめでたき、其 の屑つきの如何にも女らしく優しき、其の横顏の能くば覽えほ ながら櫻色に美はしきは、嗚呼我が相見んと希ひたりし其の〓 にあらずや。正しく昨日は見、今朝は思ひたりし其のお龍なら すや。御佛を念ぜし今少時の間のみ忘れ居たりし其の優しく懷 しき親切の人ならずや。我が〓を漲ぎて聞きし不幸福の物語を 有せる悲しき薄命の婦人ならずや。何ぞ其の掌を合せて念ぜる さまの哀れ〓くして、曽を霊れて思を凝らせるざまの人の心を 動かすや。不思議にも何時の間にか此堂には參り合せたる!と 思ふ時漸くに念じ終りてか、身じろぎして靜に女は立上りたり 『………』 「‥………』 聲無くして其處に呼ぶ聲ありり、應ふる聲ありたり、言無く して其處に語れる言ありたり、酬ひたる言ありたり。 其七 「昨日はいろ〳〵御厄介に、』 『いゝえ、却つて御迷惑でございましらう。おとうさんが彼 樣な氣合の人だもんですから、御遠慮の無いことばかり致す うになりまして。定めし御蔑視なすつた事だらうと、後になつ て二人で左樣申して居りました。』 『イヤ、どうして其樣なことを思ふものですか。たヾ私は何の 因縁も無い方にお世話をかけたのが濟まぬ樣な氣が仕ます。お 會ひなすつたら彼の方に宜しく仰あつて下さいまし。』 『ホヽ大〓折目高に物を仰あること。彼の人は彼樣した人なの てすもの、御氣にお掛けなさる事はありやあ仕ません。それは まあ何樣でも宜いとしまして、今日は何でも無い日でござい〓 すのに、どうして今頃御いでになりましたの?。貴下の拜んで 居らしつた御後姿を見まして、妾は初は氣の迷ひかと思ひまし たよ。だつて貴下が今頃御いでなさらう譯は無いと思ひ定つて 居たのですもの。」 『ハヽ、私はまた何時の間にか私の傍に貴孃の來て居られた のに吃驚しました。』 『ホヽヽ、貴下が一心になつて拜んで居らしつたから、吃驚な さらないやうにと思つて、悄々地妾も拜んで居りましたのよ。」 『それは兎も角も、今日若し貴變に御目にかゝれたら、先づ笠 一に御話をして、悦んで戴きたいと思つて居りましたが、御蔭 樣て病人も何樣やら持直して、醫者が屹度本復すると保證つて 呉れたやうなところ迄には漕ぎつけました。もう心配は無さヽ うになりました。御榮じ下すつた甲斐もあつて、御親切もまな 屆いたと申すものでございます。ほんとに病人とは御縁も薄い 貴卿が、かうして毎日々々歩を運んで下すつて、御願を御掛け 下さつた御芳情はおろぞかには思ひません、病人が快くなりま したにつけても有り難く思ひます。今といつて今は何樣御禮の 爲やうも存じませんが、何ぞの折には屹度貴卿のなめに、貴師 の優しい御芳情に對して其丈の御返禮を爲やうとは思つて居り ます。費卿の御芳情は長く忘れません。 此の事を言はんとおもふ意の充ち滿ちたるに、言葉も自から勢 籠りて、口ばかりの挨拶ならぬは確乎としたる眼つきにも著し お韻は生眞面目に如是云はれては、眞舳には當り得ざるやうの 氣も仕て、安からぬ心地の簿に爲ればにや、たゞしは又他知ら ぬ考の別に有ればにや、我が祈願の甲斐の見えしを悦ぶとも舞 、水野に斯ばかり禮を云はれしを嬉しと思ふとも見えず、却 つて物差したるが如く沈着かぬ樣子になりて、時々は見でも〓 き遠方の額などにちら〳〵と其の美しき眼を辷らせて聞き居し 『まあ眞實にそりやあ何よりの事で、こんな嬉しいことはもう ございません。どんなにか貴下の御嬉しいことでございましや ノ!。貴下の御胸の中を思つて見ますと、妾も何だか嬉し〓が 出さうになります。何も妾なんぞが御願ひ申したからといふ譯 ではございますまいが、あれ程に一心になつて御願ひなすつた 貴下の御念力だけでも、佛樣が打棄つては御置きなされなくつ て、それで五十子さんが快く御なりなのでございましやう。ほ んとに五十子さんは御羨ましい、御不幸のやうで御幸福の方で す。神樣佛樣の御憐愍さへかゝつて居る方ですもの!。 と末は誰に云ふとも無く言ひたりしが、はしたなしと思ひてや、 調子を變へて、 『歸りましたら早速師匠にも左樣申しまして、御丹精甲斐の有 つた事を聽かせまして悦ばせましやう。定めし屹度有り難がる 事でございましやう。』 と言を添へたり。 其八 際限無く御堂の内に若き女と立ち話して參詣の老若に面見られ んごとの好ましからぬ心地すれば、水野は談の切目に本尊の方 を一拜して、漸く下向の路に就かんとするに、お龍は間隔たら ず連れ立あては來ながら、遲々として却つて水野の歩を濫ら山 〓とするが如し。 變堂の階段は降り盡しぬ。貴影行交ふ長々しき石營の路を二 は辿れり。こゝは賑はしからぬ時も無きところとて、ぽつくる の響き、雪駄の鳴、人聲物音一つになりて、たゞがや〳〵と譯 無く變がしく、七子の袖は擦れ違ふ縮緬の袂、矢の字の帶は〓 る海軍幡、甲家の旦那樣乙家の奧樣、女の兒も男の兒も目まど るしく徃蒸すれば、遂げては我も他を見るに由無く、他もま 我をゑるに由無く、葉くは他の談も耳に入らねば、戰が談も〓 た他には閣えぬなり。お龍は此の中を連れ立ちて歩きつゝ、や やもすねば獨立ちて先に行かんとする水野を追ひかくるやうに して、 『アノ、今日は御休みの日ぢやあございますまいのにネエ。わ ざわざ御林みなすつて御禮參りにいらしつた譯なの?。」 と、若し然もあらば、餘りに彼の人の事を思ふ心のみ強くして 何も彼も忘れ果てたるが甚し過ぎたりといふやうに、聊か笑を 含んで問ひかけたり。 先刻にも受けたる問なら、答ふるも煩はしと思ひて顧ざりし が、今又如是樣子に問はれては默りても居難く、 『ハヽヽ、まさか左樣いふ譯でも無いのですが、丁度職務は辭 して仕舞つたので、それで萬一したら貴卿に御目にかゝれやう かといふ考も有つて、平日よりは早く出て來たのです。仕合〓 巧く御目にかゝる事が出來て、聞いて戴かうと思つて居たこと も聞いて戴いたので、悉皆思つた通りになりましたが、これも 下らない職務なんか廢して仕舞つた故でしやう、ハヽハヽ。」 と輕く打笑ひたり。 水野は輕く打笑ひたれども、職務を棄てたりといふ事の、お魂 には輕からず聞えやしけん、其の眉を顰めて心配げに 「お職務を御止しなすつたのですつて!。何故其樣なことをな すつたの?。何も御困りなさる樣な事は御有んなさりやあ仕ま すまいけれどもネエ、何だつて其樣な事をなさいましたの。そ んな事をなさら無くてもぢやあ有りませんか。』 と滿腔の同情より私に生活の道の便宜惡かるべきを氣遣ふもの の如し。 『ナニ、別に無理に辭めたいと思つたのでも無いのですけれど も、辭めさせられて見れば仕方がないわけですもの。』 『だつて、何故ネエ?。餘り御不勤でもなすつたの?。」 『イヽヤ、そんな事は決して爲ん私です。』 『ぢやあ其樣な事になる譯が無いぢやあ有りませんか。もしそ れぢやあ萬一したら五十子さんの事で評判でも立つて、其の爲 といふやうな譯ぢやあ無くつて?。」 『ハヽ、云はヾ其樣な事の爲なんでしやうが、何樣でも其樣な 事は構やあ仕ません。まさか下らない職務を止したからといつ て困りも住ますまいから、いつそ〓小な職務なんかに縛られな い今日の方が宜い心持が仕ます。 『そりやあ左樣でも御有んなさりましやうが、でもまあ差當へ て…‥。ほんたうなら五十子さんの御母さんが何樣にでも仕す あげるのが道なんですけれども。 何をか思ふ、お龍は言ひ澱んで考に沈みしが、水野は却つて〓 冴として、 『ハヽ、決して何も心配して下さらんでも可いのです、考案。 あるのですから。信心を仕て、愚だと云はれて、〓斥されて仕 舞つた、こんな馬鹿でも、男は矢張り男ですからネ。イヤ此處 で失敬しましやう、左樣なら。 と書生風に淡泊に挨拶して別れ去らんとす。何時か石路は既に 歩み盡せるなり。 何にか心を奪られ居しお龍は、水野の告別の辭に打慌てゝ、 『ぢやあ明日また御眼にかゝれますの?。』 と辛くも一句問ひかくれば、既に十餘歩を隔たりし水野は無言 に點頭きて、情無きが如く其儘終に東に去りたり。 去り去る百歩餘りにして、水野は徐ろに首を囘して見れば、人 の繁く車の煩きが中に猶悠然と立つて、我が方をや見送り居た る、お龍の面の花と白きが仄かに見えたり。 其九 ○疾病のやうやく快くなり行くさまを、薄紙を〓ぐが如しとは誰 が云ひ初めけん、さしもに一時は危かりし五十子の、天譯いに だ盡きねば人力効ありて、實に此頃は薄紙を〓ぐが如く、日に 日に少しづつ快くなりゆけば、年齡の勢も藥餌の能もこゝに現 れ來りて、一陽來復の機待ち得たる若樹の、猶雪には籠められ 水には〓されながらも、既に漸く芽をも蕾をも含み居て、やが て春風の渡らん曉に誇らんとするが如く、簑れ果てたるが中に も、はや行末の榮りる色は微見ゆるに至れり。 されば愁の雲厚く蔽ひて、火の消えたるやうに陰氣なりし此の 家の、五十子が面の色の美くなり行くに連れて、一室の中は日 の出でし如く賑やかになり、先づ年少の松之助より何ぞに付け て笑聲を洩せば、元氣溢るゝばかりの看護婦も折節は高笑ひし て、こゝは人々の機嫌も好く、談話聲も所ゆる、陽氣の家と打 て變りたり。 體温は高下少くなりて漸く平常に復さんとするの勢を示し、脉 搏は猶弱けれども走らず満らずして危險の虞の既に去りたるを 現せり。恐ろしき〓に惱める日の少からざりしかば、肉は落ち 骨は立ちて、今猶一人しては何とする事も叶はぬほどに衰へ果 てたれど、一昨川より昨日は好く、昨日より今目は確乎として、 病勢の烈しかりしに纎弱き婦人の身なれば衰弱こ之尋常越えて 甚しけれ、これより五六週間も立たば、必ず病まぬ徃日の健 康に囘つて、日々の勤務を執るに至るを得べしとの相良尾竹の 言葉も僞りなるまじく思はれぬ。 五十子が状態是の如くなれば、松之助は自ら〓き乳を薦めたフ 或曉、其の姉の面をつく〴〵と打護りて。 『もう大丈夫だ、もう大丈夫だ!。はんとに怖いと思つた時も 有つたけれ共、とう〳〵僕の姉さんは僕の姉さんになつた!。 と無邪氣に叫び出して笑ひ悦び、相良が手より來れる着護婦へ 芳野は、或夜體温表を記し終れる次に、其表をつく〴〵眺めた がら、 『マア宜かつた事、もう如是いふ樣子になつて來れば心配は無 い。一時はほんとに何樣なるかと思つたけれど、マア患者さん も幸薦、私も幸福で、患者さんは辛棒甲斐があり、私は看護田 斐がある事になつて、相良さんに對つでも面目がある!。 と獨語ち、又、吉右衞門に命けられてお澤が許にありて人々が 爲に雜事の勞を執れる下婢のお鹽も、 『水野さんの念力だけでも治癒ると人が言つたヾが、ほんに可 怖いもんだ!とう〳〵治癒るるだあ。病の高じた時あハア、何樣 しても彼世へ辷り込みさうな樣な顏を仕て御座つた彼の人- 彼の危かつた人を取り止めることが出來たかと思ふと不思議で ならない。おらあハア始めて人の念力といふ可怖いものを目の 前に見て魂消た。醫者業ぢやあ無いだ、全く醫者業ちやあ無い だ!。」 と下司の常とて言葉こそ多けれ、これもまた五十子が囘復を悦 べる數には洩れぬに、たヾ彼の強慾のお澤婆のみは、 『生きたつて面白いとも定つて居ない世の中に、とう〳〵彼の 人も生殘つたやうだ!。まだ業が滅しないので死ねないと見え るだ!。水野の世話で死なゝかつた丈に、却つて今後が面倒ら しい。無錢で買へるものは一つも無いだ!、借は返さずには眩 度濟まないだ!。物を取れば代りを與る、借りた茶は茶で返す、 酒は酒で返す!。人の親切は何で返す?。生命の恩は何で返す? 生きたが彼の人の幸福だか何樣だか?。病氣は無くなつただら うが、可厭なものが殘らう!。死損つて氣の毒の樣な!。治( てから彼の人が何樣な氣持がさつしやらうかサ!。業が盡きな いだ、業が殘つたヾー、何癒ることが芽出度いに決るかい!。」 と、〓りに松之助やら看護婦やらの尾に從いて悦べるお鹽に對 つて、例の如く〓さげに冷笑ひて言ひ聞かせたり。 其十 凝れるものを觀れば石あり璧あり。生ふるものを觀れば雜草お り百合あり。同じ人間にも、一生おろかしく衣食のために逐ひ 使はれて、猶其の足らざるを憂ふる額の皺を深々と疊み、おへ が働きの無きは省みずに、他人を恨み世を謗りて甲斐無く悶う ながら老境に入るもあり、又生れつきの心の丈高く胸の海濶く して、此のむづかしき世に身の取り置き拙からず、憂さも苦し さも、するりと切り拔けて、屈託せぬ顏色の何時も若々と、雲 より上に居る月の、澄し返つて暮すやうなる優れ者もあるなり。 お龍は自己が身の上の今の果敢無さを差らひて、我が口より我 が友なりとは憚りて云はねど、彼方は何處までも隔意無く、七 龍を友とも妹とも待遇ひて、親身も及ばず優しくするお形とい へる一美人あり。 叔母が無理壓制の婿取沙汰を厭ひて、駿〓を〓け出でゝ東京に 來りし時、お龍が先づ頼りしは此女にして、お龍と共に淺草に 遊びし日水野に遇ひて、水野をして其の美に驚かしめしも此女 なりけるなり。 お形が身分を問へば、世に聞えたる一代分限の筑波何某といへ る六十男の外妾に過ぎぬなり。然り、藥研堀附近に數寄を凝 らせる家を構へて、賑やかなるが中に靜閑に暮すはどの贅澤を 縱にし、美衣を纒ひ美饌を口にし、萬般幸福に世を經るとは いへ、實に其の身分を問へば外妾には過ぎぬなり されどお形は人の正室たるを得ざるが故に身を日陰者の其位に 安んぜるにはあらず。今を去ること七年はど前の事なりき。筑 波が其の正妻を失ひし時、面の美しさばかりに迷ひ溺るゝがご とき痴漢ならぬ筑波は、よく〳〵見定めたるところやありけん、 お形を引上げて正室とせんとは云ひたりしなり。されば其時む 形にして強ひて辭み立だにせざりしならば、今は此の世の表面 に立ちて、立派に筑波夫人と崇め仰がれ、夫の勢力の及べる培 域には反身になりて誇りて生活すことの〓ふべき筈なるを、我 から我が出世を遊り止めて今も猶外妾たるなり 筑波が引上げて正室とせんと云ひし時、お形は如何なる意にて 之を辭みしか知らず。されど其の外に現はれたるところにては、 お形は一向謹み愼みて、 『妾を引上げて下さらうといふ御思召は嬉しうございますが、 妾は實家も無く後楯も無い身ですから、左樣仰あつて下さるか ら好いはで成り上りましたら、人の謗り嘲りは何の樣でござい ましやう。其も妾が惡く云はれるるだけで濟めば宜うございます が、針ほどの事も棒ほどに云ひたがる人の口ですもの、何ぞの 折には妾のことを云ひ出して、彼樣なものを引上げたのは何事 たと、屹度貴下を惡く云はずには居りません。よし何を人が云 つたつて氣になさるほどの弱い貴下では無くつても、妾の所爲 で貴下の金箔を〓〓すのは妾は嫌ぞす。どうせ今まで日陰者ブ 濟まして來た妾ですもの、いつそ一生日陰者で濟まして終つて 人に目角を立てられずに生活した方が性に合ひさうです。貴下 さへ見棄てゝ下さらなければ、自分が出世して貴下を惡く云は せやう氣はございません。 と、いと眞面目に道理正しく斷れるのみか、扨打解けて碎けて 笑ふ醉の後などには、面と對ひて遠慮も無く直接に 『正室になりやあ正室だけの荷を背負はなけりやあなりません からネ。力の無い妾が其樣な事を仕て肩を凝らすよりやあ、氣 樂にして斯樣して居る方がマア宜さゝうですから。」 と云ひて肯はず。乘らば乘るべかりし玉の輿を自ら棄て吝ま ざりしかば、某子爵の姫君は筑波の妻として今の榮華を受け得 たまふに至りしなり。 されば筑波はお形を日陰者として世にこそ隱し居れ、之を愛で 重んずることは今の正室にも勝れり。 お形は是の如くにして此の世にたヾ一人の筑波の意を失はざら んとする外には、何の心を用ひ氣を勞らすことも無く、年の首 より年の尾まで、身の周圍の物より庭の隅の草木まで、一切を 榮華の頂上の仕度三昧に振舞ひて、誰に苦情を云はるゝことも 無く日を過ごせるなり。 其十一 六疊の茶の間、茶の間とはいへ大抵の家の客室より美しく、柱 より敷居鴨居の木口の結構さ。格の配りに物好を見せたる細骨 の纖巧なる二間四枚の障子に、繼目無しの紙は雪より白く椽の 方より光線を取りて、上は嫌味氣無き柾の天井、下は縁無しの 備後表といふ室の内の、好きはどに据ゑられたる多分太田あた りで指させたるらしき島桑の長火鉢と、其の横手に置かれたる 思ひ切つて立派なる支那製の紫檀の茶棚とは、先づ入るもの 目を惹きて、此家の女主人の十二分に財に富み足りて、且つは 其の勸工場品に望み足れりとするやうなる沒趣味者ならぬを示 し、壁の塗り色、押入の襖の模樣まで、すべて釣合ひてしつゝ りと整ひたるが中に、おのづから薄手ならず又わびしげならで 飽まで『良いもの好き』「粗惡なもの嫌ひ』の趣きは見えたり、 『お龍ちやん、お前御客樣らしく仕無いでも、もつと此方へ寄 つて御あたりナ。』 大島紬は好いものなれども、何處となくぼやついて、すつぺら とせぬが厭なり、平常着は此に限ると、平生御召縮緬を着通せ るお形の、今も相變らず其品づくめの衣服つき見好く、絹物の 坐蒲團の上に居て、火鉢より南部の鐵瓶を重さうに取り下しな がら斯く云へば、 えゝ、姉さんのところへ來て御客樣らしくなんぞ仕や仕ませ んがネ、まだ火の傍へ行きたいほど寒かあ有りませんもの。』 と笑ひつゝお龍は言に從つて聊か坐を進めたるが、實に其の顏 は見るからが冴々しく櫻色に艶にして、如何にも此の頃の寒さ 位は何とも思はぬらしき樣子をあらはせり。 お形は坐を進むるお龍が頭髮を一寸見しが、女同士の談の緒 は先づ其より解るゝ習なり 『今日もまた束髮にしておいでだネ。此節は何時見ても結つて は居ないのネ。」 『ハア。姉さんでさへ矢張束髮になさるぢやあ有りませんか。 まして妾なんか。出る先に立つて一々人手を假りるのが億劫な ものですから、つい自分でもつてぐる〳〵と卷いて仕舞ふので、 似合は無いで可笑くつて?。」 「ナアニ似合はない事は有りやあ仕ないよ、ぢやあ今日ももう 何處かへ御出出だつたのだネ。 『ハア一寸」 こゝに至りて女主人は其の美しき面に微笑を泛めて、 『當てゝ見やうかへ。」 と戯るゝが如く云へば、お龍は言も無く莞爾と笑みて親しげに 輕く點頭けり。 「屹度また淺草へ御出だつたのさ。」 『いゝえ。」 「なに、いゝえの事が有るものかネ。ソラ〳〵口は詐をお云ひ でも顏は正直だよ、ハイ觀音樣へ參りましたと、その笑つて居 る眼が、チヤーンと左樣いつて居るよ。』 『ホヽホヽホヽ。』 『ホヽホヽ、それ御覽、御手の筋たらう。御精が出て眞實に御 奇特の事だネエ。』 『あら姉さん、調戯つちやあ厭ですよ、あんまりですは。』 『左樣さネエ。何も彼の人に御會ひでも無かつたらうに、調戯 はれちやあ惑然だつたネ。』 『もうようござんすは、澤山いろんな事を仰あいよ。今日も不 思議に落合つて會つて來ましたは。』 『オヤツ。そんな譯は無いぢやあ無いか。今日は平常の日だし、 彼の人は職務が有るつていふ談だつたもの。ぢやあ矢張打合で も仕て御置きだつたの?。」 「いゝえ、そんな事は有りあ仕ませんがネ。彼の人が職務の方 を辭して仕舞つたので、それで今日は御午前に出て來たつて云 ふんで。ひよつくりと御堂で會つたわけなのですよ。 『ヘしエ、職務の方を辭したつてあゝ解つた免されたん だネ』 『左樣なのよ、事實は免されたのですつて。其について妨さん に些お願があつて來たのですがネ。』 と、やゝ眞になつて談話をせんとするお龍の眼色を見て、お形 は輕く一寸制止めつ、 『御待ちよお龍ちやん。彼室へ行つてから緩々と談を聞かうか ら。』 と、奧の方を指さし、 『あら姉さん、此室で澤山だは。』 とお龍の云ふを打消して、 『妾が茶の間に居るのゝ嫌なのはお前も知つて居るぢや無いか。」 と遮り、さて下手へ向つて小間使のお春といへる可愛らしき兒 を喚び出し、 「妾の部屋の茶道具を能く清潔に仕てネ、そしてまた彼室へ持 つて行つてお呉れ。お茶は妾が自分で淹れるからネ、お前は御 菓子を出して、…‥ア羊羮はいけない、玉簾の方を切つてお で。』 と命令け、 『さあ此方へ御いで。』 と立上つてお龍を奧へ伴へる時、恰も時計の音は三時を報じた 男にもいろ〳〵あれば、女にもいろ〳〵ありて、まことにお形 は今みづから言へるが如くに、平生長火鉢の前に坐りて茶の間 に在ることは悦ばずして、おのが室と定めたる小座敷に端然と して居ることを好めるなり。されば是程の好き茶の室をも、一 ト風ある氣性からは、床の間さへ無き室と賤しく思ふなるべし。 其十二 市中の事なれば廣くはあらねど、特と花物を嫌ひたる常磐木の みの庭の、見えぬところに人の手の十分に用ひられたる説とて、 枝々は好きほどに折り合ひて茂りながら、隈々は汚からで明る く、わづかに大からず小さからぬ燈籠一つの形状も佳く時代に ありて一寸面白きがほかには、別に此といふ價の高き樹も珍ら しき石も無けれど、一體の調子の蟠屈無くすらりと、幽閑にし て、特設へ氣も無く、見る眼安く穩和なるところに自然飽かぬ 床しさありて、夏は梢に新月の低う懸る宵、不如歸の一ト聲を も待ち得ば縣とおもはれ、冬は雀膨るゝ寒き日の雲破れて時雨 はら〳〵と落つる夕、或は又雪の薄綿萬物を包む曉など、如何 にと忍ばるゝばかりなり。 されば折ふしは此家にも出入りする筑波が氣に入りの骨董屋の 老漢に、利齋といひて、内々は茶道天狗の小賢しき男、此の庭 を見て、 『猫の額ぐらゐの庭だが、彼の人の住居に彼の庭は何ともいへ ない。庭の出來が好いばかりでは無い、彼のこつくりした素樸 の景色の中に、繪の浮いて出たやうに美麗な福相の美人の彼の 人が澄まして居る對照といふものは、何のことは無い、茶壁の 何も無い床に一輪の白牡丹を活けたやうなもので、一ト〓人の 眼を驚かす。彼の人が花だから花は要らない。これを思へば花 と見られるほどの容姿も無い女なぞが、自分の庭前に花を植ゑ たりなんぞして、妙に優美がつて好い氣になつて居ても、下〓 に花の近傍にでも彷徨かうものなら、宛然海棠の下で狸がチ) テンでも仕て居るやうに見えるのが多い。茶道を知らない奴け まあ其樣なものだが、彼庭が彼の人の好みで出來たといへば、 彼のお形さんといふ人は顏が美いばかりぢやあ無い、何も彼も 解る人だ、中々一ト通りや二タ通りの人で無い。道理で物品を 買つても買ひつ振りが可い。そして倦きつぽい彼の筑波さんが、 何年といふものこびり付いて居る。どうも偉い、茶道を知つて 居るから何樣も偉い』 と、自己が高慢を交ぜて評したる事ありき 家の一角の小座敷の、僅四疊半には過ぎねど、此の庭を東南い 受けて、陽氣なれど麻を長く仕たれば明る過ぎず建てられたる が中に今しもお形お龍は相對して坐れり。薩摩杉の天井板の木 理美はしく、根岸茶の壁の色沈着きて、床にはお形が好みか箔 波が好みかは知らず明人らしき書の小幅を掛けて、棚にはこれ は慥に主人が玩弄に疑ひ無き繪卷など取り繕はず載せたり。出 入口、窓の取り方なんど總べて茶室めきたれど、釜を掛くるフ とは嫌へるにや爐は切りてあらず、一面に美しき敷物の敷きつ められて、一方の隅には今物らぬ女用の螺〓の黒き小机の、 漆光は〓に〓けて好き頃に古びたる善美いふばかり無きが上に 同じやうなる手の小さき硯箱置かれ、机下にも同じやうなる手 匣の置かれたる、此の前は女主人が常の座處なるべし。 お形は今其座を背後にして、是眞が蒔繪の桐胴の手爐の小さき を横手に、此方を向きて茶を淹れ居れば、お龍は清楚とこそ仕 て居れ、おのが銘仙織づくめの衣服の身の、居るには憚らる はどのお納戸緞子の蒲團に、やゝ安きかぬるが如く坐りて、客 といへば客ながら、おのづから貧富の相違に壓さるゝ氣味あフ を如何とも〓難く、たゞおとなしく内端に控へたるが、猶持へ て生れし氣象の徳には少しも萎げぬ顏つきの我は我だけに冴き て、毫末の隔て氣も無く人を親む眼の中凉しく相對へるさま たとへば一人は晴の日の晝に笑へる牡丹ならば、一人は野の刷 のそよ吹く秋に、寒さ知らぬ色して咲ける木芙蓉ともいひつべ し。 其十 古薩摩か古九谷とありさうなところを然は無くて、永樂あたり の稀品なるべし、形状品格佳くして彩釉快く覽はしき京燒の茶 沿を、五指白玉の如く美しき手に自ら扱ひて、既に鎚目の銀瓶 の湯を徐々に注し終り、今や一盞に玉露の花香を湛へて、お形 はこれをば與へ遣りつ、鍋島の菓子皿をば又聊かお龍が〓へし 推進めたり。 お龍は心底より悦びて茶を味はひつ 「いつでも眞個に勿體ないやうな佳良な御茶ネ。 「ホヽヽ、お茶ばかり褒めずとも淹れ方も褒めて、お呉れな。 『ホヽ、そりやあもう、口へ出しては云はなくつても……〓) 『オヤ左樣、嬉しい人ネエモぢやあまあ澤山御菓子でも御食り なすつて。』 『厭ネエ、ふざけて!。姉さんは人が惡いは。』 とお龍は一寸瞭つたるやうな顏して云ひ、 『それに此の御菓子は妾は澤山ですよ。 といふ。 「嫌ひ?。」 と女主人は輕く眞面目に問ふ。問はれて莞爾なる舊に復りなが ら、 『まあ左樣なの。 と氣の毒さうに答へたるは、思はず我が好き嫌ひの我儘を口走 つたる無遠慮を羞ぢて、今さら詮方無くも猶少し暖脉に言葉を 濁せるなるべし 「いけなかつたネエ、甘味嫌ひとばつかり思つて居て此品が〓 ひだつたとは知らなかつたよ。もつともネ、一體此は御茶に 條り賞めたものぢやあ無いの。そればかりぢやあ無い、鳥貝の 御鮨もじだの玉簾だのといふものは、惡く氣取つた女に食べて せて遣れなんぞといふ位のものだつたのに、つい妾が氣が注 なかつたよ、堪忍おし。今他のものを何ぞあげるから。」 『何故?。氣取つた女が何樣か仕でもするの?。 『ソレ烏貝はお前早くは咬み切れないし、玉簾はホロ〳〵と〓 れ勝だし辛くはあるしするからネ。いつまでも口をムグ〳〵ナ せて居たり、だらし無く膝を汚して、そして辛さを辛抱する〓 顏を仕て居たりするのなんぞは見好いものぢやあ無いからさ。」 『あらツ!、妾あ其樣な譯で嫌ひだつていふのぢやあ有りませ んは。姉さんのところへ來て一寸だつて氣を置いてなんぞ居や あ仕ませんのに。好うござんすよ、一人で悉皆頂いて仕舞つて、 其邊中食べ零して、そうして澤山見つとも無い泣顏をして、築 つていたゞきますから。 『ホヽホヽホヽ、ホラ始まつたよお龍ちやんの癇癖が。だがお 前が一寸口惜しいといふ思入をすると、色艶は好し、眼は清し いし、眉毛は奇麗だし、それが悉皆役に立つて顏中が活きて見 えて來て、ほんとに〓〓で可憐らしいよ。』 一好うござんすよ。」 此度はいよ〳〵晩りていよ〳〵言葉少く、恨めしげにじろりよ お形を睨みて、つんとして其の儘横を向かんとせしが、閉事は 兎に角、云はで叶はざる用事はあるなり、雲時間を置きて面を 喜げ、 『ネエ、姉さん、今彼室で云ひかけたのはネ、眞個に妾の御師 ひの事なんですから聽いて下さいましな。』 と、心配氣にお形が面色を見ながら、いつはりならず心を籠〓 て云ひ出したり 『あゝ可いとも。お前の御頼みの事なら何でも聽いてあげるー も。』 此は極めて易らかなる語氣のいと輕き答なり 『ほんとに?。』 此方は力を入れて重ねて問へば、彼方は沈靜きつて平氣に、 『あゝ、ほんたうにさ!。」 と事も無げな。 『あゝ姉さん有り難うございます、一生記えて居ますよ。ぢや あ申しますがネ。かういふ譯なんです。」 と説き出さんとするをお形は抑へて、 『可いよお龍ちやん、かういふのだらう。彼の水野さんていと 人が職務を離れたに就いちやあ、何樣か彼の人を困窮らせたく 無いので、妾に口をきいて貰つたら家の旦那の方にでも好い口 が有りやあ仕まいか、出來る事なら好い口を搜し出して持つ一 行つて遣りたい。と、かういふところからのお前の御頼みなの ぢや無くつて?。」 と全くお龍の胸の奧の文を鏡に取りて見る如く云ひ出したり 云はれてお龍は驚いて眼を瞬り、 『まあ、何樣して然樣不殘妨さんは知つてゝり。妨さんの智性 の深いのは前から知つてますが、ほんとにまあ、何樣すれば其 樣に人の意が解るの?。妾あ餘り其の通りなので怖いやうな釘 が仕ますよ。全く然樣いふ譯の御願でわざ〳〵來たのですが 何樣いふものでしやう?、姉さん、聽いて下すつて?。」 と正直になつて頼み聞ゆるを、お形は憐むが如く憐まざるが如 く冷かに見やりて、 『頼みを聽くも聽かないも有りやあ仕ないがネ、お龍ちやん、 お前そりやあ詰らない事だらうよ。 と、いと物靜かに先づ一句云ひ斷りたり。 其十四 我が胸の中の所思の底を盡して説き中てられたるに、一度は先 づ驚き服したるも、其れを詰らぬことゝ唯一言に斥けられては、 物に堪へぬお誰の心平らかならず、思はず顏を〓と擡げて 『何故ネエ。』 と詰り氣味に咄嗟に言葉を返しゝが、見れば古風の内裏雛の如 くに端然としたる面つきの、細けれど亘の長くして特にはつき りと明らかなる眼を、我が上にぢつとお形の注ぎ居たるに、其 の沈靜きたる態度の中に具はれる自然の威は、輕々しく慌た しき我を壓す如く覺えて、何といふ事は無けれど當り難き心地 の爲、氣勢忽ち挫けて語氣も萎々と、 「詰らないつて、其りやあ然樣かも知りませんけれども、妾に やあ些も然樣は思へませんは。下らないかも知りませんけれど も妾の思つてる事を、ネエ姉さんどうか一ト通り聞いて見て下 さいな。』 と、憐惑を乞ふが如くに云ひ足したり 人に頼みごとするものゝ心の中ほど苦しきは無し。強ひるほ〓 に頼まねば願望は成り難く、強ひ過ぎて怒られて仕舞へばそれ までなれば、願ふ意の切なれば切なるるり、我が言葉の斟酌〓 氣を使ひて、斯樣云ひて宜かるべきか惡かるべきかの心配に 人知れず幾干の胸を痛むるなりお形は我が愛するお龍がい らしき心の中を、早くも其の目色語氣に猫し知りて、たちまち に面を和らげ笑を爲りつ、 「まあお龍ちやんの思つてる事つて何樣いふ事なの?。 と、云ひ出で易きやうに路を開きたり。 お龍はこれに勢を得て、 「經過を御話し仕ないぢやあ、何だか單、妾の餘計な物數寄の やうに聞えますからネ、長つたらしくても最初つからいひま十 よ。まあ一番初つからいひますとネ。 と、先づ語り出して縷々と語りつヾけぬ。 『もと彼の水野つていふ人は妾の知つてた人でも何でも有りや あ仕ませんがネ。今妾の世話になつてるお師匠さんに義女があ るのです。會つた事が無いから面は知りまとんが好い容貌ださ うだし、學問も中々あるさうで教師さんを仕て居るんです。お 五十さんといつて、沈毅者でネ、もとつから繼母とは氣が合は ないので全然離れて居て、一人立で何樣か斯樣か遣つて行つて たのです。世話になつて居て惡く云つちやあ濟みませんがネ、 お師匠樣は隨分我儘ぢやあ有り、品行だつて堅い方ぢやあ無い 勝手な人ですから、眞正の理屈を云やあ端正として居るお五十 さんの方が正いのでしやうサ。だけれどもお師匠さんに云はせ りやあ、變に高慢で、執拗な可厭な女だつて云ふんです。まあ 其あ何方が眞正だか會つて見ない人の事ですから分りませんけ ともネ、其のお五十さんていふのが弟の世話まで燒いてゐるの に、お師匠さんは何も少に管はないで、自分ブ取るものは自分 で使つてお酒なんぞを飮んでるのですも、まあ何樣してもお 師匠樣の方…阿扇は上げられませんやネ。ところが其のお五十 さんといふ人が窒扶斯を患らつて、生死の分っない怖い瀬にハ かつたのです。それを何樣でしやう家の御師匠樣は振り向いて も見ないのです。もとよりお五十さんが財産を有つて居やう〓 やあ無し弟ツ兒はまだ一向の小兒なんですもの、困つて仕舞 ふのは知れ切つて居ます。其處で彼の水野さんていふ人が世話 を仕たのでしてネ、彼の人はお師匠樣にもお五十さんにも赤の 他人なのです!。」 其十五 『過日も一寸御話しを仕たのですから諄くは云ひませんが、廿 の赤の他人の彼の人とお五十さんとの間は、たヾ互に同じ學校 に奉職めて居るといふだけの事です。そりやあ成程お五十さ々 を思つて居るからとはいふものゝ、何も有り餘つて居る人ぢや あ無し、學校の先生なんぞを仕て居るのですもの、その懐中合 も知れて居ますはネ。その樂でも無い人が無け無しの中で何樣 か工夫をして、お醫者さんも頼んで來る、看護婦も附ける、下 働きの小婢まで添へて置いたと云ふなあ、普通大抵の親切ぢや あ出來ません。でもまたお五十さんが彼の人と思ひ合つて居て のの人の親切を身に沁みて悦んで心底から嬉しいとでも思ふよ いふのなら、隨分彼の人も苦み甲斐がありましやうが、性が合 はないとでも云ふのでしやうか、御師匠さんの談では嫌つて嫌 ひ拔いて、有難いとも嬉しいとも思ひさうも無いといふんです もの、彼の人の立つ瀬は有りやあ仕ませんはネ。それに段々し 吾家の御師匠さんの口占を引いて見ますと、今度の事の起るず つと前から、お師匠さんは彼の人がお五十さんを思つてるの〓 附込んでネ、將來はお五十をあげましやうといふやうな事を巧 く匂はせて、何とか彼とか口實を拵へては若干金かづつ絞つわ らしいので、どうも後前を能く考へて見ると屹度さうなのです よ。』 『へーエ、罪な事を仕たもだネエ!、お關さんといふ人は。』 「罪ですともはんとに!。あんな生眞面目な初心な人を欺すの ですもの。』 『ぢやあ、お前の御師匠さんていふ人は惡い人ちやあ無いか。』 『唯、まあ善い人たあ御師匠樣ですけれども云へませんネエ。 で、吾家のお師匠樣が萬一普通に人情合の分る人ならば、從前 の事は何樣でも斯樣でも濟んだことだから仕方が無いとしても、 今度は云はヾ水野さんの世話一ツてお五十さんを取り留めたの ですから、床上げでも濟んだ其の曉にやあ、たとひお五十さん が何と云はうとも割つ口説いつして、水野さんに嫁るやうに〓 も仕なくちやあならない筈だと思ひますは。ネエ姉さん、然棒 ぢやあ有りませんか、義理つてえものがネエ。 『成程お前がお五十さんの御母さんだつたら然樣も御爲だらう とおもはれるよ。』 お龍は此のお形が答に少からぬ不足の色を現したり 『ぢやあ姉さんが若し御師匠さんだつたら?。」』 「ホヽヽ、挨拶が些氣に入らなかつたネ。妾がお五十さんの母 さんならカエ。さうさねエ、妾ならまあ、先へ恩返しを仕て置 いてネ、世話になつた恩は恩で水野さんに恩返しを仕てネ、 縁の事は其から後で決めやうと思ふネ。』 『然樣!。それならそれで其もまた譯の分つた大變に良い仕士 だと妾もおもひますは。ところが吾家の御師匠さんは妾の云( たやうに仕やうでも無けりやあ、姉さんのお云ひのやうに仕や うでも無いんで、たヾ病患い時やあ人まかせに仕て置いて、治 りやあ自分の子つていふやうな勝手な料簡で、いつまでも水野 さんは釣りつばなしに仕て打棄つて置かうといふんですもの、 酷いぢやあ有りませんか」 『そりやあ酷いとも!。酷い人だよ。聞いて見りやあ眞個にお 前の御師匠さんて云ふのは惡い人だよ。 「でもまあ縁の事は當人同士の事で、親の思ふやうにばかりも ならない理も有りましやう。ですからお五十さんが嫌なら嫌で 強ひるわけには行かないとして、其あ其で可いとしたところが 恩は恩ですもの、恩は何處までも着なけりやあなりません。〓 して水野さんが困るといふ時節になりやあ、何樣しても知らん 顏ぢやあ居られない譯で、出來ないまでも心配だけなりと仕な くちやあなりませんはネ』 其十六 『ところが吾家の御師匠さんと來た日にやあ眞個に酷い人で、 妾がこれ〳〵だといふ話を仕て聞かせても、フーン然樣かエと 云つたばかりで氣の毒とも云はずに、默つて懐手で高處で見物 しやうといふんですもの、餘りぢやあ有りませんか。それも水 野さんが職を辭すやうになつた其の原因が、何も關係の無いフ となら其で宜いかも知りませんが、彼の人が學藝が出來ない! いふのぢやあ無し、怠惰たといふのぢやあ無し、たゞお五十さ んに親切にして、信心まで仕た其事が人目に立つて、傍の風評 が矢覽に喧ましくなつて、其が爲に職を退いたといふのですか ら、云はヾ此方の爲に然樣いふ譯になつたのですもの、石佛だ つて氣の毒と思はずには居られさうも無いところです。それを 何樣でしやう全然知らん顏で、濟まして行かうといふのです! 人間も其の位身勝手になれりやあ澤山だと思ひますは。」 『だつて惡い人なら其の位の事は平氣で仕やうぢあ無いか。』 『そりやあ云つて見ればまあ其樣なもので不思議はあります子 いがネ、丁度中に介まつてゐる妾が兩方を見ますとネ、つくづ く吾家のお師匠さんを餘りだと思ふ其に連れて水野さんが愍然 で恐然で、ほんとに何といふ愍然な人だらうと身に浸みて思ひ ますは。』 『さうさネエ、まあ愍然で無い事も無いネエ。』 「あらツ!、まあ整然で無い事も無いネエだなんて、餘りです は。いくら自分が迷つただから仕方が無いとは云ふもゝ、 助かるか死ぬかも知れない病人に對つて、心配も仕て遣る、お 金も掛ける、書生さん風の人だのに信心まで仕て、此の節の人 の爲さうにも無い觀音樣に手を合せるといふやうな事まで爲れ のは、まあよく〳〵の事で無くつちやあ出來ませんは。それだ のに其程思つてる人にやあ酷く嫌はれて、そして吾家のお師匠 さんにやあ口頭だけで綾なされて、御腹の中ぢやあ舌を出して 笑つて居られて、揚句の果に取るものも取れ無い身になつて仕 舞ふなんて、そりやあ男兒のことですから胸も濶いでしやうし、 氣性も毅然と仕て居るらしい人ですから、まんざらくよ〳〵も 仕ますまいが、妾が若し彼の人の身だつたら、まあ何樣なでし やう!。此の先お五十さんの氣が折れて優しくでもなつたら濟 みも仕ましやうが、若しお五十さんはお五十さんで何處までも 剛情を張り、お師匠さんはお師匠さんで鼻の尖ばかりで待遇( て行つたら、何程男兒だつて迷つた心持の苦しさは女と異ひも 仕ますまいもの、何樣なにか泣きも仕ましやう、恨みも仕まし やう、口惜がりも仕ましやう。恐然に彼の人は云はヾ清玄見た やうなものになつて、終局にやあ段々との行掛づくから、何樣 な怖ろしい恐い場に行き着かうも知れません。よし然樣なつた ところでお五十さんやお師匠さんは、身から出た錆だから仕方 が無いとしても、別に何も惡い事は仕ない彼の情の厚い、正直 な、生無垢な、彼の前途が有りさうな彼の人が‥‥見す〳〵 一人廢つて仕舞ふのは惑然ぢやあ有りませんか。ネエ姉さん 察しの宜い姉さんに其處が解らない事はありますまい。惡い事 も仕ない人が見す〳〵人一人廢りさうな、それが愍然で無い事 はありますまい、ねエ姉さん。』 情激してやお龍が面はやゝ紅くなり、其の眼は濡れ色を帶びて 異しく光を増せり。 其十七 『そりやあもう屹度お前の御云ひの通りだよ。そのお五十さ々 といふ人やお前の御師匠さんが、いつまでも〳〵然樣いつた調 子で居りやあ、それほど迄に思ひ込んだ彼の水野つていふ人の 落ちて行く前途は知れて居るよ。學問もあるといふ人の事だか ら、まさかに無分別沙汰も仕まいけれどもネエ、彼の人が若出 人かなんかだと、それこそ怖しい事にもなり兼ない話たよ。』 「然樣ですとも、ほんとにー。もし彼の人が無茶な人だつた日 にやあ、隨分刄物でも持ち出し兼ないとおもひますよ。さうす りやあ差詰め吾家の御師匠さんが目ざされる人ですネエ。』 『あゝさうとり!。お前の御師匠さんといふ人は小な恐い人な んだけれど、仕方が餘り罪な仕方だからネ、隨分麟切で〓かれ る位の事は出來ても是非が無いよ。』 「ですか彼の人が無茶な人で無だけに、何樣間違つたつて下 らない事なんかは仕や仕ますまい。百のものならまあ九十九〓 ではぢつと堪へるるだらうと思ひますが、何處までもぢつと堪へ て獨りで舌しんで、思ひ死に死んで仕舞ふまでに穩しく仕て居 やうかと思ふと、分別や堪へ情が有る人だけに猶の事氣の毒で、 ほんとに何といふ恐然な人だらうと思はずには居られません それでもまた彼の人か困らずにでも居たら、同じ胸の苦しい中 でも氣の樂なところも有りましやうが、職務は無し、身體は閉 なり、懐中合は惡し、差當り段々困つて來るといふところで、 其の困るやうになつた原因のお五十さんは情無いし、お師匠さ んは薄情の地金を露して、一昨日お出といふやうは挨拶を仕な ら、彼の人の胸の中はまあ何樣なになるでしやう。火水が一終 になつたやうになつて、居ても立つても居られや仕ますまい。 ですから妾が吾家の御師匠さんの子とか姪とか、何か親谷のも のでゞも有るのならば、よしんばお師匠さんと論爭を仕ても お五十さんを與るとか、恩返しをするとか、何の道にせよ彼の 人の立つ瀬のあるやうに、何樣にか仕て遣るのですが、お師匠 さんと妾たあ他人同士、養女になれ養女にするつて此頃ちや大 切にして優しくは仕て呉れても、此方あ食客てす、論爭ふまで にやあ何も云へません、また論爭つたつて無盆なのは知れて〓 す。ですけれど御師匠さんの代になつて行つて、彼の人と知り 合になつてから、いろ〳〵のいきさつを聞いて一々知つて見る と、妾あ眞個に彼の人が氣の毒で〳〵、お五十さんていふ人が 小〓らしい位に思つて居たところへ、これこれで職も無くなつ たといふ話を聞いて見ると、ハア然樣ですかと云つた限りにや あ出來無いやうな氣もすれば、何だか知らん顏で打棄つて置い ちやあ不人情のやうな氣もするんですよ。で、姉さんが口さへ きいて下さりやあ必定譯は無い事、多勢の人をお使ひなさる筑 波さんところで人一人位に授けて下さる職の無い事は有るま からと、然樣思つて、それで餘計なおせつかいか知りません 御願ひに來たのです。一體ならば吾家の御師匠さんが出來ない までもかういふ苦勞を仕て見なけりやあならない處なので、妾 が爲るのは出過ぎても居ましやうが、お師匠さんはお師匠さん で澄まして平氣で居ても、妾あ妾の苦勞性で安然としちやあ居 られなくつて、斯樣して出て來て姉さんに縋るのです。まさか 如是だけに細い理由を御話仕たら、そりやあお前詰らないよ! 云つても下さいますまいが、ネエ姉さん、妾の慾得で御願ひを するのぢやあ無いし、姉さんだつて彼の人を惑然ちや無いとお 思ひなさるやうな事は有りやあ仕ますまいもの、お願ですから 妾の所思の無にならないやうに仕て下さいな、ねエ姉さん。 思ひ入つて頼み聞ゆるお龍を優しき眼して見居たるお形は、先 刻より今に至つて猶未だ費の毛の一筋をだに動がさず、端然よ して坐りたるまゝなり。 其十八 お形は其の美しき手に手始の縁を撫づるとも無く撫でながら いと靜に口を開きて、 『お前の云ふ事は、ようく分つたよ、だがネエお龍ちやん!。。 ノ親しげに呼びかくればお龍も、 『ハア」 と甘ゆるか如く輕く答へてお形を見つ、我が姉の如くに頼み思 へる人は何と云ひ出づるならん、多分は我が頼みを聞いては〓 るゝならんがと思ひながらも、だがネエと云へる發語に、少し 氣造氣味の、心配らしき眼して他の眼を見たり。 『成程お前の御云の通り水野つていふ人も〓然だし、お前の御 師匠さんていふ人の仕方も惡いがネエ、お龍ちやん、お前が何 も彼のお師匠さんの眷屬といふのぢやあ無いし、又深しい關係 のある免れない仲といふのぢやあ無いしさ、お前が彼のお師匠 さんのところから身さへ引いて終へば、其の話あ全然お前にや あ飛沫も飛んで來ない話になつて仕舞つて、たとへ何樣な喧嘩 が始まるにしても泥仕合が始まるにしても、彼方が彼方だけブ 何樣にでも遣り合つて居やうつていふ譯ぢやあ無いか。彼方同 士あ一團になつてこんがらかつて居る絲だよ、お前は其一團の 中に入つては居てもこんがらかつては居無い-引張ればする りと〓けて仕舞ふ事の出來る絲だよ。だから早い話を云やあ汝 が其のこんがらかりの一即の中に入つて、氣を使つたり目を使 つたりしてまごついて居るよりやあ、するりと〓けて仕舞つた 方が何程好いか知れないよ。譯は無いやあネ、妾のところへ來 てお仕舞ひな、以前のやうに妾のところで氣を長閑に仕て、小 説でも讀んで遊んでおいでが宜いぢやあ無いか。彼のお師匠さ んていふ人が何かぶつ〳〵云つたにしても、金錢のぽつちりな 與りやあ尾を振つちまふ人だらうから、何もむづかしい事は有 りやあ仕無いはネ。お前の爲の好いやうになら何樣なにでも什 てあげるつもりなのだし、お前の身の上に就いちやあ妾も些考 へてる事もあるんだし、又何處までも引受けて世話を仕度いと いふ道理も有るんだからネ。決して惡い事は云はないから〓け て仕舞つたら何樣だエ。第一お前の話でも分つて居るお前の御 師匠さんネ、そんな可厭な人と一緒に居て末々はお前何樣仕や うつて氣なのだエ。お前程にも無い、分らないぢやあ無いか。 『そりやあもう段々と彼の人の御腹の中が讀めて來て見ると、 到底末長く一緒になんぞ居られる人ぢやあ無いのですし、妾に 仕た前々の所行も此頃になつて見りやあ、合點の行く恨めしい ことが澤山あるのですもの。ですから表面こそは奇麗にして居 ますが、些も一處に居たい事なんか有りやあ仕ませんの!。た だ、今直に何樣思つたからつて思つたやうにもならない身だも んですから‥‥。』 『それで彼家に居るとお云ひのかエ。それ御覽、彼の人は前つ から妾が推量した通りだつたらう、云はない事ちやあ無い。だ から今お前をちやほや云つて家に置いて居る料簡だつて、 『つまり妾を猿廻しの猿にして、自分が食べやうつていふ腹な んですよ。その位の事は妾だつて、氣のつかない程人が好くも もうありませんからネ。それを何時までも小兄かと思つて、馬 鹿にして居る氣の御師匠さんの仕方にやあ腹が立ちますは。』 『ホヽホヽホヽ、澤山苦勞をお化だつたから、前のお龍ちやん ぢやあ無いものネエ。だが然樣知り切つて居てそれであどけ無 い風を仕ておいでのなんざあ、お前の方がお師匠さんよりも人 の惡さが一枚上ぢやあ無いか知らん、ホヽホヽホヽ。 『ホヽホヽホヽ、だつて妾あ、あんな眞の惡い〓い人にだから 然樣して居られるのですは。善いとおもふ人に對つちやあ此○ ばかりだつて作り飾りは仕やあ仕ませんよ。」 「ホヽホヽホー。いゝよ。誰もお前を眞個に惡い人におなりだ つて云ひや仕ないから。で、さういふわけなら猶の事ぢや無い ル。一日も早く其樣な人と一つ御釜の御飯を食べあつて縁を深 ゝする樣な事を、仕無い樣に仕た方が宜からうぢやあ無いか。 「そりやあ其の譯はもう能く分つてますが、ぢやあ、姉さんの 心持ぢやあ水野さんの事は、まあ一體何樣したら好いんだと御 思ひなんでしやう?。構ふ事は無い、何も彼も抛つてお仕舞ひ と御思ひ?。』 此は恨むるに似て云へど彼は感ぜざるがごとし。 『一體水野つて人は彼りやあお前の何に當るのだエ?。」 『‥………』 『お前あの人に其樣なに肩を入れて何樣仕やうつてお思ひのだ エ?。』 「…………』 『考へて御覽、餘り詰らな過ぎるぢやあ無いかエ。。 『‥だつて姉さん。」 『だつてぢやあ無いよ。え、お龍ちやん、妾あ何だか意地の惡 い事を云ふやうだがネ、ようく考へてごらんな。どうだエ、そ れ、お龍ちやん。」 『‥だつて姉さん、」 「いゝえ。だつてぢやあ有りまとんよ。能く考へてごらん。詰 らない事は終局まで行つても矢張り詰らないよ。』 「だつて姉さん‥。だつて姉さん…。でもそれぢやあ餘り 恰悧過ぎて薄情ぢやあ無くつて?。 其十九 お龍は自己が身の凡てお形に及ばざるを知れるなり。第一今の 身の舟遇は掛けても及ばざるを知れるなり、有つて生れたる容 貌ももとより及ばざるを知れるるなり、智慧は特さらに及ばざる を知れるるなり、讀書筆札も二年三年苦しみたりとて及ぶべきに のらず、挿花茶湯はいふまでも無く、我が最も好ける絲竹の道、 彼の最も悦ばぬ縫針の道に掛けてすら猶且及ばず、隨分人にけ 負くる嫌ひの、何事を仕ても人後には立つまじと思ふ身ながら、 何事を仕てもお形には及びかぬるを知りて、心の底の底より深 く深く尊び敬へるなり。されど唯一つ、情合の深き淺きとい〓 事のみに掛けては、ひそかに姉と頼むお形にも讓らざる心地し て、我は何ぞの折には慾も得も何も彼も棄てゝ〓舞ふ馬鹿なり 共、彼の人は恰悧だけに同じ其の時に然樣は爲まじき人と、却 つて流石に崇め慕へる其人をも、聊か物足らず飽かず思へる〓 味さへあるなり。 されば今お龍が云ひ出でしは、もとより率然の語なれども、音 を用ひざる其の僅少なる語の中に、お龍はおのづからお龍の氣 性の、然ばかりに崇め思へるお形のためにも枉げられず屈せら れぬものあるを露し出して、抑へんとして抑へかねたる不服の 氣を我知らず洩らせるるなり お龍の持前を知りきつたるお形は、走り來れる矢を幕もて止な る如く、柔軟なる語氣に却つて問ひ反しぬ。 『薄情ぢやあ無くつてツて。何故またネエ。』 『何故つて、姉さん。そりやあ妾さへ退いて仕舞へば妾の身の 好いのは知れて居ますが、それぢやあ彼の人は否運まんまで遺 るので、矢張り彼の人は愍然ちやあ有りませんか、ですから其 れぢや薄情になりますはネ。妾あ詰る詰らないは何樣だつて好 いんですよ。妾あたゞ彼の人が愍然たから何樣か仕て遣りたい つて云ふんぢやあ有りませんか。』 『いゝえ、お前の心持はもう悉皆解つて居るのだがネ。妾あ又 ただお前の朋友で、お前の利盆になる事を仕てあげたいのだか ら。-いゝかエだから妾あ前途の前途まで考へるので、お 前の詰る詰らないを關はないなんて、そんな事は出來ないよ。。 『でも詰る詰らないで云やあ、何だつて詰らないは!。妾みわ やうな種々な目にあつて來たものは活きて居るのからして詰ら ないは!。何樣せ妾が彼の人を愍然だから何樣して遣りたいと 思つたつて、結局妾にやあ何にもならない-詰らないなあ知 れてますは…‥。でも妾の氣が屆けば妾の心持は宜うござんす は。知らん顏で濟ますなあ薄情なやうな氣が爲ますは。」 『オヤ、妾あ爲なくちやあならない事を爲ないのが薄情つてい ふものかと思つて居がが、お前のは爲なくても濟むことを仕無 いのに薄情といふのだネ。」 『爲なくちやあならない事を仕無いのは、そりあ不義理ですは、 爲なくても濟むことでも、爲てやりやあ他人の利盆になる、そ れを爲ないのが妾あ薄情かと思つて居ますよ。」 『お龍ちやんのやうに云つた日にやあ、お誰ちやんの他の出間 の人は悉〓薄情者のやうになつて仕舞ふよ。ホヽヽ、まあ其り やあ何樣でも宜いが、それぢやあ詰つても詰らなくつても水野 つていふ人は妾が引受けて何樣か仕てあげるとすると決めて置 くがネ。』 其二十 『ぢやあ姉さん、はんとに受合つて下さるの。』 お龍の眼は既に罪に無く悦びて笑めるなり。お形は其の樣子を 見て却つて微に愁ふる色あり 「ある。彼の人が困らないやうにするるだけの事なんぞは、旦郡 に云ふまでも無い、妾か何樣にでも必定爲てあげるがネ。お龍 ちやんは又何だつて然樣彼の人の事に肩を御入れのだらう?」 『だつて姉さん終然なのですもの!。」 『たヾ愍然だつていふばかりで?。』 『ハア然樣ですは。」 『全くたヾ?。」 『いやだ事ネエ、何だか異アしく御聞きなさるのネ。』 面は漸く不安を現し、言は忙しく其の問を遮り止めんとしたり。 お形は口のはとりに見ゆるか見えざるかの笑を浮めて、猶追〓 して已まず 『もしやお龍ちやん、お前、あの人が好になつたのぢやあ無く つて?。』 『エ。』 「ひよつとしたらお前、胸の底ぢやあ彼の人を思つてるのぢや あ無くつて?。』 眼の上に白刄を閃めかさるゝが如く、一語は一語より急に逼り 立てられて、お龍はさつと面を紅くし、 『あら姉さん、其樣な事を云つちやあ妾あ嫌ですよ。妾やあ基 樣な氣なんぞを些も有つて居やあ仕ませんは。 と、明らかには答へたれど、驚き慌て狼狽へてどぎまぎせる熊 はあり〳〵と見えたり。お形は此度は婿然と笑をつくつて、 『必然?。』 と重ねて問へば、お龍は既浮き足を踏堪へ身構へを仕直して、 『だつて、知れきつてる事ぢやあ有りませんか。彼の人はお五 十さんていふ人を思ひに思ひぬいてるのですもの、横合から妾 が思つたつて何樣なりましやう!。いくら妾が馬鹿だつて醉狂 だつて、其の位の事は知つてますから、空店へ郵便を抛り込む やうな事を何で爲ますものかネ。ホヽホヽホヽ。〓 と戯言まで云つて自ら笑つて何氣なき態なり。 お形はお龍の言を信じたりや信ぜざりしや知らず、 『然樣かエ。そんなら何も既云ふことは無いのだがネ。妾あ又、 お前が彼の人を好いてでも居るといふことなら、次第に依つち やあお前の爲に一ト苦勞して、お前の身の收まりの好いやうに 仕てあげやうかとも、初手にはふつと思つたのだよ。』 『エ。』 全然おもひの外なりし言葉にお龍は復驚かされつ、我知らず心 を動かして答さへ答へ鈍りしが、お形は早くもその眼色を見て 取りたり。 『だが彼の人は彼樣だし、何樣なものだらうかと思つて居る中 また別に一條の話が出て來たので、お前の爲に彼の人は棄てス 者に仕た方が宜いと決めて居たところ、丁度お前も左樣いふ氣 だと今聞いて妾も安心したよ。さうで無けりやあ彼の人を思( たつて詰らないといふ事を云はうかと思つて居たところたよ。 其の云ふところは假設にや實際にや、お龍はたヾ我が心の蜘蛛 の秀に〓められ行れて、抵抗はんに抵抗ふべき力の入れどころ も知らぬ中、次第々々に自由を奪はれ奪はるゝが如く覺りるの 『ネエお龍ちやん、仕樣が無いやネ、あゝいふ人は。お前彼の 人を何樣いふ人だとお思ひだエン。なる程情も有らう、正直で もあらう、學藝も出來やうがネ、一生の所天にするにやあ、氣 むづかしやで、貧乏性らしくつて、ヘチ頑固なところが有つて、 彼あ餘り有り難くは無さゝうだネ。といつて情夫にするにやあ、 容貌が惡かあ無いが愛嬌の足りない、面白味の薄い、無粹の、 世間を知らな過ぎる-何樣もお前の相手にやあ些不足な男ぢ やあ無いか!』 其二十 お龍はお形の水野を評するに平らかならねども、反駁さんも何 と無く後見らるゝ心地せしが、其の言ふところ多くは當れるを 如何とも爲る能はず、たヾ僅に、 『あら姉さん。てんで妾あ全然其樣な事を思つてや仕無いのブ すから、彼の人が貧乏性だつて無粹だつて何樣だつて宜いぢや 有りませんか、不足でも過ぎて居ても關係の無い事ですは。蹄 分酷い事ネエ、姉さんの言も。 と、知らざるを粧ひて我には聞き辛き談を少しも早く外さんと 化たり。 『然樣さネエ。ホヽヽ關係の無いものを兎や角いふのには當ら ないのだがネ、此あまあ無意の話だと思つて聞いて居て御覽よ お前はどうせ彼の人を何樣の彼樣のとなんぞ思つては御いで。 無いといふのだから、別に何にも心配は無いがネ。こゝに氣が 優しくつて而して〓氣のあるやうな若い女があつて、何樣かし た心の機勢から彼の人を思ふやうなことが有るとするとネ、早 く氣がついて引返して仕舞へば其限で濟むけれども、田舍道な んか歩いても能くある事で、二十丁三十丁も間違つた路へ踏込 んで仕舞ふと、あゝ間違つたと氣が付いても後へ返る氣にはな れないで、何樣かして出拔けやう出拔けやうつて云ふんで餘計 變な路へ入つて、下らない苦みをすることが得て有るものだが 丁度其樣な譯で下手に人を思つて、少し宛少し宛深みへ入つ 行くと、終にやあ飛んだ目を見無けりやあならないやうな、馬 鹿なところへ行つて〓當りもするよ。何でも前途の知れない怪 しい路へ入つたら、一二丁しか歩ない中に立止つてネ、ぶつ と考へるか人に聞くかして、引返すのがまあ肝心で、無暗に歩 いて行くのは一番危い事だよ。彼の水野つていふ人は一ト目月 ても分る、性は良い、眞人間だよ、不實な人ぢや無いだから 彼の人が別に人を思つてるので無けりやあ、彼の人を好いたと いふ女が有りやあ其りやあ好たで宜いのさ。而して其の女の 思も屹度彼の人に分つて、小説ならばまあ芽出度芽出度といふ ところにもなるるだらうがネ。彼の人が他の人を一心に思つてる からにやあ、性の良い人だけに傍からの思ひは受け付けまい、 眞人間だけに二心は持つまいよ。然樣すりやあ彼の人を思ふな あ死路へ向つて行くやうなもので、行けば行くだけの草臥儲は たから、そんな路へ若し一寸でも歩が向いて居たらば、其方 踏込んだか踏み込まない中に後へ引返して仕舞ふと、然程苦に もならない、損も仕無いで濟むといふ譯なのだよ。誰しも損路 を仕ないで世の中を歩いて來るものは中々無い。お前はお知り でないが妾だつて損道を澤山仕て來て居る。お前は妾も知つて るが既一度甚い冗道を歩いて、踏拔も仕ておいでだし生爪も〓 がしておいでだし、散々な目にお會ひだつた人だから、今さ、 また前途の知れない怪しい路へなんぞ、無暗には入つて御いブ では有るまいから宜いがネ。 お形は云ひ終つて默し、お龍は聞き終つて默し、互に言葉の紛 えたるところへ、小間使のお春は次室より現はれ、 『あの昨日お來臨なすつたお婆さんの方が御出になりました。』 と云へば、 『おゝ丁度好いところへだつた、此方へと御云ひ。お龍ちやん、 お前、吃驚おしで無いよ。お前の大嫌の靜岡の叔母さんだよ。 と、お形は笑を含んで云ひたり。 「其二十二 お形と我が叔母とは相識なるべき筈の無ければ、此家にて叔母 に會はんとは夢にも思ひがけざりしお龍の、主人の言葉を聞き ても猶信じかねて、よもやと疑ひ訝かれる間も無く、既お春に 近びかれて、身體は一體が小粒なる上に老いたればいと小さく 見ゆれど、石の如くこつつりと堅さうに緊り切つたる小さき顏、 薄くなりたる郷毛のびつたりと地に緊着ける小さなる頭、負 ぬ氣が尖つて露れたるやうなる小さき三角の眼、都べて小さき が中に毫も緩みの無き、我が叔母のお近は忽ちに現はれたり 監の味噌漉縞の衣を襟元窄く着て、疊み皺見ゆる黒の紬の羽鮮 に、古ねて堅くなつた茶の細紐を少し胸高にきつちりと結び 妙に角張つて坐つてしなやかならず挨拶せるさまは、何樣見て も靜岡の在より出で來りたる田舍婆と見えて律義〓し。されど 明治の初年に兩親に連れられて、東京を〓れしまゝ茶圃麥〓 の間に離斷として年を取りは仕たれ、根からの田舍者ならぬに 言語だけは然のみをかしからず 「何樣も昨日はまことにお喧しうございましたらう。老年では ございますし、我張り婆ではございますし、それに田舍に居り ますので自然と馬士かなんぞのやうな大聲になつて仕舞ひまし し、自分の勝手ばかり饒舌り散らしましたから嘸御迷惑でござ いましたらうと、是でも又殊勝らしいもので、後では御氣の毒 に存じましたのでございますどうも種々何や彼や御深切さず に有り難う存じました。それに御馳走にまでなりまして、夜に までお邪魔を致しましたりなんぞして、まことに既年甲斐も無 い自分勝手ばかりの婆だと、御蔑視のところも御羞しうござい ました。若し萬一さて〳〵勝手者だと御愛想盡かしも有らうか と、宿へ歸りましてから些心配致しましたが、ナアニ馬鹿にや あ恰悧な方の事は分らなくつても恰悧にやあ馬鹿なものゝ事は 能く分るだらうから、此方の何程か有り難く思つて居る位の事 は御分りだらうからまあ安心だ、屹度馬鹿婆だけれど腹の中は 人並だ位には思つて居て下さるらうから、と斯樣まづ勝手に 決めて仕舞つて、安堵いたのでございます。ハヽヽ、何樣か御 恩には必らず着ますから宜しく御願ひ申しまする。では此女に もう貴女樣が今日お招び下さいましたので?〓 と、人の云ふ事は餘り聞かずに獨りで饒舌つて、お形には語を 挿む間をさへほと〳〵與へざるほど、身體には似合はず大な頑 健なる聲もて先づ語りたり。 其二十三 お形はお近が言へる間にも、少しの受答へを爲つ、語を挿まく とせざるにはあらざりしも、立板に水とはいふべきならねど下 り坂に走る小車のやうに騷がしく忙しく話しつづけられて口を 入れ兼ね居しが、今斯く問ひかけられて僅に言葉を出し 『いゝえ然樣ぢやあ有りませんが他の事でもつて、丁度自然に 先刻方見えたので、』 と云ひかけてお龍の方を莞爾やかに見やり、 『お龍ちやんお前、默つておいでぢやあ不可よ、叔母さんぢや あ無いかネ。』 と輕き一句を與へつ、またお近に向ひて、 『きまりが惡いもので羞澁んで困つて居るのですよ。ホヽヽ〓 だ若くつて、いつそ可憐らしいぢやあ有りませんか。どうかま あ今日のところは御叱りならないでネ、貴卿が御目上ですか ら優しく仕て御與りなすつてネ。〓 と、二人の間をば取り繕ふやうに云へり。 此の叔母が擇み定めし婿を嫌ひし、朝となく夜と無く論ひ 合ひ睨み合ひて、さらぬだに性の合はぬ中の、いよ〳〵おもし ろからず、えゝ、あた忌々しい、何となるものぞと、後の迷惑 も思はずに無言つて駈け出したるまゝ、恩のある事は知つて居 れど〓らしさもあるに、手紙一本も出さで知らぬ顏に濟まし來 りし今日、〓然に此處に相會ひてはお龍も聊か驚きつ、顏を見 ては流石氣の毒さに面伏の思ひもすれど、勝手のみ強くして遠 慮を知らぬ性急の話聲の、いつもながら喧しく耳に響くを聞き ては、もう薄腹の立つほど蟲が嫌つて厭で〳〵堪らず、出ずと も可い人が出て來てと迷惑がりて、出るも引くもならぬに心そ げて居たりしが、お形に斯く云はれては横を向いてばかりも居 られず、不承々々に、 『叔母さん‥‥』 と云ひし限り、あとはぐず〴〵と口の内にて何を云ひしやら知 れず、術無げに頭を下げて漸と挨拶すれば、叔母はなか〳〵も う默つては居ず、三角の眼をきらりと光らせ、 『でもまあ能く忘れずに叔母さんと御云ひだつたネ。ハイ、其 後はしばらく。お前も御達者で、別に御天道樣にも愛想を盡か されずに御暮しで、まあ結構だネ。まことにお前の御蔭ぢやあ 恐ろしい沸湯を飮ませられました。會つたら引捉へて耳でも拙 り取つてあげて、何の位妾が痛かつたか苦しかつたか、此樣 なものだつたよと、察して貰ひましやうと思つて居ましたがネ、 此方樣の御言葉だから堪忍してあげる。しかし彼の事は何樣か 此樣か既濟んで仕舞つたが、一つ濟めば又一つでお前の御蔭樣 で、斯樣して砂塵ばかり立つ東京くんだりへ、田舍婆さんが ゑつちらおつちらと得々出かけて來て、此方樣へも御厄介を掛 けたりなんぞ仕ます。婆さんを苦勞ばかりさせて御手柄の事で 〓ネほんとにお前の仕た事に碌な事は有りやあ仕ない。お〓 の仕た事の中で好い事といふのは、此方樣に可愛がつて頂いて 居るといふ事ばつかりだ。此方樣にでも見離されりやあお前の やうなものは、それこそ最終は倒れ死だよ。身に染みて覺えて おいでなさい、もうお前の身體はお前の料簡ぢやあ勝手にはな りません。妾がすつかりと願つて置きました。もう何も彼も此 方樣の仰やる通りにするのです。三絃の師匠だなんて、彼樣 惡い人のところへ、身を置いては決してなりません、出入りし てもなりません。早速これから其家を出て此方へ御厄介になつ て、此方樣を有り難いとおもつて身を責めて御働きなさい。』 と獨り合點して、まくし立てゝ指揮したり。 お形は訝り疑ふお龍を見て、 『叔母さん、其ぢやあ此の人にやあ分りますまい。かういふ事 なのだよお龍ちやん。』 と靜に説き出したり。 其二十四 最初つから云ふと如是なのだよお龍ちやん。それ一昨年の夏 の事だつたね、これこれで此度叔母に伴れられて、厭だけれど も靜岡へ行きますからつて、お前が暇乞に御いでだつたことが あつた、其時からといふものは隨分長い間、此方から手紙をた げても返辭は少いしたまに御遣しでも極々短つかい眞の義理 濟ましだけの事だし、是あ何か知らないけれども甚く氣を取 れておいでの事があるのだらう、と思つて居る中に今年の三〓 ふらりつと妾の處へ御いでだつたが、顏付に全然變つて仕舞へ い、前〓見た處女らしいところは無くなつて御終ひだし、樣 は何だか知らないがそは〳〵としておいでヾ、妾に御話しの〓 話にも辻褄の合はないどころは有り、何樣り氣になる事ばかし だから妾は心配して、すこし置いて呉れと御言ひのことだから あゝ宜いともと、表面は何の氣もつかない風で家へは置いて〓 げたものゝ、何樣なにいろ〳〵と物をおもつたか知れないよ 此處に居ることを靜岡へ知らせては呉れるなと、念に念を押し ての御依頼だつたけれども、今白状してお前に謝罪るがネ、何 樣も物の道理が然樣は行かないと思つたので、お前には内密で もつて靜岡の叔母さんへ、これ〳〵の樣子で、如是々々してお 龍ちやんは妾の方に御いでだと、妾が全然知らせて仕舞つたの だよ。』 此まで語り掛けし時、叔母はお龍を見て、 『それ御覽。汝のやうな分らないものゝ云ふ事や思ふことばか りが何で通るものかエ。此方樣のやうな方は何程御優しくつて も、角々は嚴然と道理のある方へ御就きになる!。お前は知ふ ないで好い氣になつておいでだつたらうが、ちやんと妾の方へ 御知らせくだすつて、いろ〳〵と御注意まで仕て下すつたのだ 七分通り八分通り話の定つた婿を嫌つてお前には出られる、何 處へ行つたかもかいくれ知れず、また短氣を化て若しや淵川へ でもかと、何程妾が苦勞して困り拔いたか知れない、其處へ此 方樣からの行屆いた御手紙で、やつと胸の凝塊がすこし下つた 居所は知れたし、引捉へてとも思はないでは無かつたが、何樣 せ其科嫌つて居る婿ならば、仕方がないからいつそ破談になよ つたが宜からうし、破談になさるなら又當人が其地に居ないで 何處へ行つたか知れないといふ分になすつた方が、事か濟み易 からうし、若し強ひて無理な事をなさるやうでは當人の爲にも 却つてならないやうな事になりは爲まいかと思はれるから、次 第によつたら姑く此儘御預かり申しても宜い、と能く分つた出 方樣の御親切な御仰ありやうでもあり、また此方樣の御噂も準 て聞いて何樣いふ方かと合點しても居たので、とても妾には制 道の就きません我儘者でございますから既諦らめました、御甘 え申しては濟みませんが然樣いふ譯でございますれば、此方の 話も解けて濟んで仕舞ふまで御預かりを願ひます、成程今妾が 出て參りまして當人に會つても何にもなりますまいから、御迷 惑でもござりましやうが其では何分宜しく願ひまする、若し〓 常人が不心得なぞを致して、御厄介を掛けまするやうなことが ございますれば屹度引受けまする、と斯樣いふ御挨拶を仕て願 つて置いたのだ。今解つたかエ、妾の心持も此方樣の御思慮も。 それはど妾にも此方樣にも人知れず氣を揉ませて置いて、それ だのに何だエ、月日も經ない中に又此方樣を駈は出して、- 妹のやうに思ふ子のやうに思ふとまで云つてくださる此方樣の 御親切も、妾はお前の眞實の叔母だけれども然樣は濃かにお前 のためを思ふことは出來ないと我の折れるほどに仕て下さる右 リ難い此方樣の御恩をも全で餘所にして、何が不足で無言で三 終の師匠だなんて彼んな惡い奴のところへ行つた。これ、何於 此方樣を後にして稽古所なんぞの手助けを仕て自墮落に暮した のだエ。彼女あお前、お前に碌でも無い男なんぞを取り持つ 狸婆ぢや無いか。性凝りも無く、まだ浮氣が仕だくつて、術 樣な奴に末始終は食はれるのも知らないで、此方樣を出たのか エ。猫!。いやらしい猫し、ほんとにいやらしい猫↓。猫だへ て畜はれた恩を三日經つてから忘れる、汝あ畜はれて居て可乙 がられて居て即時に忘れただ。妾にも然樣だつた、此方樣に も然樣だつた。お前のやうな好い姪をもつて人樣の前で、妾あ ほんとに肩身が廣ぐつて何樣なにか嬉しいよ。』 と、例の眼を動かし〳〵思ふさまに罵つたり。 其二十五 然樣いふ氣性の人と思へば腹は立たぬながら、理由も知いず唯 一〓に猫よ畜生よ猫にも劣るとは何程叔母樣なればとて餘りな ○言葉。靜岡から唯一つの頼にして出て來たほどの此家を無言 で出たのは、よく〳〵口惜しい悲しい事の有つたればこそ、牛 きて復顏を見たり見られたりする氣が些でもあつては、お形さ んの親切を餘所にして、何樣して彼事な事の出來るものでは無 し、全く〓い〓い源を殺して自分も死んで仕舞ふ氣で、濟まな いことは悉皆冷くなつてから謝罪る積りの、遺書さへ身に着け て持つて居て此家を〓けて、出會つたが最後一發と思つて居た 其は其の事無くて其の意の見えずに濟んだゆゑ、たヾ勝手淫奮 の心から彼樣なところへ行つて、身を自〓落に稽古所に置くよ 思はれても仕方無けれど、自分の姪を其樣なに惡いものにして 罵罸せば何が面白いのか、辯解すれば又男を〓さうとした叔母 の知らぬ一條の談を、こゝで新規に仕出さねばならぬ故、知ら ぬを幸ひにして默つて惡く云はれて濟ませば、それで濟むこし と濟ましも仕やうなれど、餘りといへば同情の無い、我ばかり の人と、私に口惜く思ふか眼さへ沽ませて、お龍は小さくなり しまゝ咳嗽一つせず、たヾ頸垂れて凝然としたるさまは、首の 座に直れる罪人の罪状讀まるゝを、何と詮方も無く聞き居るに も似たり。 「其樣なにまあ苛いことを仰あらないでもの事で、お龍ちやん か妾のところを出て彼家へ行つて居るやうな經歴になつたのに は、いろ〳〵の理由もあることで我儘ばかりぢやあ有りません。 それは濟んで居るこゝだから何樣でも好いとして、此度叔母さ んが此地へ出ておいでのは、お誰ちやんお前の今居る家の彼の 御師匠さんネ、彼の人がお前を呉れろと叔母さんのところへ、 何だか變に搦んで云ひ込んで行つたといふ其から事が起つたの だよ。』 「ほんとにお前は何處迄人に世話を燒かせるのだか數が知れな い人だよ。お前が此方樣に御用介になつて靜穩しくさへ仕て居 れば紛紅の無いものを、性の知れない人の世話になんぞなるか り、下らない苦勞を無盆にさせられる!。此方樣の御音信で汝 の樣子も大抵は知つて居たか、此頃になつて汝の師匠といふ人 から、何でもお前を貰ひ度いからとの再々の云ひ込みだ。こり よく御聞きなさい。一體ならお前のやうなものは遣つて仕舞と 方が苦勞拂ひだから、鰹節でも付けて遣つて宜いのだが、見す 見す食物になつて仕舞ふ前途が見えて居るから、然樣はなりせ せんといつて挨拶したら、まあ何といふことだらう、直に狼 物の本性を出して、長い間御世話を仕て居た費用がこれ〳〵だ、 お龍さんを下さらなけりやあ御立替を如何かなすつてと、吃驚 するやうな法外のお金を妾から取らうといふだ。人を田舍婆 に仕て小馬鹿に仕たつて、野へ出ても座敷へ上つても人にやあ 負けない婆だ、先方が然樣出るなら、此方も出樣がある、お龍 は妾の妙だ、妾が連れて歸ります、お龍に御注ぎ込みなすつか のは汝さんの御親切樣だ、妾あ些少でも御恩になつた覺えはあ りません、何も誘拐を御商賣にやあなさりますまいから、人の 妊棚に指を御さしになる事は有りますまいと、お前を拉去いて 大手を振て靜岡へ歸つて、何樣な顏を仕て膨れるか見て遣らう と思つて、東京の生狡い狸婆の皮を〓く氣で出て來たのがネ。』 と、面前にでもお關が居るやうに怒り立つて力んで云へる語爲 面色、なか〳〵當り難くあしらひ難き婆なり 其二十六 『だがお龍、お聞きなさい、妾あ敵手が角で向つて來りやあ此 方も角で向つて行くけれど、お前のやうに眞になつて世話を仕 て呉れる叔母にも自分の勝手ぢやあお尻を向けたり、折角優し く仕て下さる此方樣をも時の都合ぢやあ袖にするやうな、其樣 な自分勝手ばかりは夢にも仕ません。お前は何ぞに付けちやあ、 叔母さんは無理壓制だ、頑固だ、自分流義で何でも押して行か うとすると御云ひだが、そりやあ頑固でもあらう、自分流義で もあらう、然し思は恩、仇は仇でちやんと記えて居ます、お前 のやうに恩も仇も見さかひの無い事は妾あ仕ません。だから今 そのお關つていふ奴のところへ押し込んで行つて、田舍婆は田 舍娑だけの意地も有りやあ根性つ骨も〓張つてゐるところを見 せつけて遣つて、間違つたことは云はない妾だもの何負けるも のか、思ふさま〓ぢ合つて〓ぢ合ひ拔いて、勝問を吐いて歸ら うと思つたが、まづ其の前に此方樣伺つて、段々御世話にな つた御禮も云つたり、またお前が我儘に此方樣を出て御親切を 無にした御謝罪も仕たり、一應は此方樣の御思召も伺つてから それら爭り合ふなら爭り合はなくつては義理が惡いと、それ で〓掛けに此方樣へ伺つて、御噂にばかり伺つて居た方にはじ めて御目にかゝつたのだよ。ところが、これお龍、お聞きなさ いよ。道理に違つたことを云は無いものは何處にでも味方がに ります。いろ〳〵とお前のことを御話し申したところ、悉皆妾 の云ふことを道理だと仰あつて下すつて、お前は何ぞの時には 此方樣を楯に取つて、妾の云ふ事を肯くまいなんぞと思つてス か知らないか、もう然樣は行きません御生惜樣-、何樣して何 樣して判然と物の道理を御見分けなさる此方樣だもの、可憐 からつて御前の味方にはなつて下さらない、すつかりと既妾の 味方になり切つて下すつたのだよ。彼樣なところに居るのな々 ぞは全くお前が惡い、と散々に仰あつて、彼家を出させるやう にとの御思召なのだ。然し何も態々とムキになつて惡い奴を相 手に爭り合つても仕方が無からう、お前が彼の御師匠さんてい ふ人の腹さへ解めたら彼家に居やう氣も有るまいから、力をス れてお前を椀ぎ取りに行かなくつても濟む譯だ、と仰あつて下 すつたから、成程と妾も思ひついて、何も老年が皺つ顏へ筋を 立てゝ喧嘩しずとも濟むことならば、と狸婆の面の皮を拗りに 行くこととだけは思ひ止まつたが、』 此處まで語れる時、お形は後を取つて、 『で、ネエ、お龍ちやん、叔母さんも實のところは、お前を直 に前のやうにまた連れて歸つても、何樣も田舍の人は嫌ひだな んて云つて取つて遣る婿を嫌ふやうでは始末が着かないから( て、あぐんで居らつしやるのだから、そこで妾が叔母さんに對 つて、何樣にでも彼樣な可厭な人の傍からお龍さんを離して御 仕舞ひなさるのは其りやあ宜うございましやうが、それもお龍 さんが彼の御師匠さんの腹の惡いのを自分から氣が付いてで無 くちやあ可けません。それから田舍へ連れて御歸りなさるのも 矢張りお龍さんが其の氣にらなけりやあ、末始終が詰ります まい。妾のところへ來て氣樂に遊んで居るのが一番お龍さんの 利盆だとも思ふし、又妾が此樣な境遇で居ながら立派な口をき くのでは夢更無いけれども、其の中には末々のお龍さんの身の 收まりも妾の分別や力て出來るだけは仕て上げたいともおもひ ますが、これもお龍さんが妾のところへ來て居るのを嫌つちふ あ仕方は無いし、若し又餘所の堅いところへ奉公住みでも仕や うといふやうな氣でもあるなら、それもお龍さんの料簡次第だ し、又些は遲けれども此節柄の事では有り、學校通ひでも仕て、 何でも女一人で人の世話にならずに遣つて行かうといふのなら、 それも其で妾の手で三年や五年は蝦茶袴さんで過させても上げ たいと思ひますから、何事も無理壓制は可けません、ようく當 人の所存ももゆつくりと聞いて見て、其の上て何樣ともする方が 宜うございます。お師匠さんといふ人にやあ、お金を遣せなら 遣つても宜うございますが、餘り仕方が惜いから、お金は惜く は無いけれ共奪られるのは業腹です、お龍さんの心次第で、何 樣とも仕て遣りましやうつて、斯樣いつて妾あ御挨拶を仕たの だよ。』 と、張りも弛みもせぬ例の調子に述べたり。 其二十七 『解つたかエお龍、まあ何といふ有り難い御優しい御思召だ〓 う。小兒の時から可愛がつて下すつた上、お前は御恩に負いて 狗猫のやうな事を仕ても、別に愛想づかしも仕て下さらないで、 お前が稽古事を仕たければ其も爲せて遣らう、家に居たいなら 家に置いて遣らう、末々の身の終局も頼むなら心配して遣らと と、斯樣なに親切にして下さる方が何處にあると御思ひだ。且 く料簡を入れかへて眞人間になつて、しやんと女は女一人だは 羞かしくないやうな今日の送り方をする身になつて、御恩返し は出來無いまでも御親切を無に爲ないやうに仕なければ、叔母 の此の妾にやきもきと幾干の苦勞させる、其の罸はよしんばお 前に當らない迄も、此方樣の罰が末始終は屹度當つて、お前は 碌な死状は出來ますまいよ。花が奇麗だ、蝶々が可憐い、人形 が氣に入つたなんぞと、其樣な下らない浮々としたことを云つ て居て過せるものぢや無い世の中だから、宜い加減に目を覺ま して確乎とした氣になつて、片目でも跛足でも構はないから食 ふに困らない男を持つて、そして子でも生んで末の安堵を見る やうに仕無くつては濟む譯ぢやあ無い。自惚れて居たつて可け は仕ない、情夫に棄てられる位の容貌で居て、飛び拔けて何が 一つ出來るでも無い天禀のお前なんぞは、自分で理屈を付けり やあ理屈も有るだらうが、世界から云つて見りやあ圃中の蠻南 心か茄子か白瓜で、何樣せ其邊中にある數物なのだもの、好 加減に熟きた時分に何樣かなつて仕舞ふのが當然の事で、早速 と縁のあるところへ行つて一代働らいて、種子でも遺すより他 にいざもこざも有りやあ仕ないのだよ。だから妾が其の積りづ 世話を燒いて遣つたのに、何だの彼だのとだゞを〓ねて妾を御 困らせだつたが、其もまあ縁が無かつたのだと其の事は濟まし て仕舞つたところで。蠻南瓜を眞綿に包んで藏ひ通したつて何 になるものでもない、矢張何樣かして片づくところへ片づけて やつて、持つて生れた役を濟まさせなけりやあなら無いから 〓そこで妾がお願を仕て、それでは靜岡に連れて歸ることは廢安 に仕まして、御甘え申して濟みませんが何樣か此方樣で御使ひ なすつて頂きたうございます、何でも手や足に戰垢切のきれま すやうにこき使つて下さいまして、其の中に破鍋に幾蓋で、彼 樣な奴ても貰つて遣らうといふ方でもございましたら、此方樽 の御鑑識次第で豆腐屋へでも炭〓屋へでも何ても宜しうござい ますから身を固めさせて頂たうございます、と斯樣いつて妾 が御願ひ申して居るのですよ。もう可けません、我儘は云はせ にせん、何でも彼でも妾り云ふ通りに此方樣の御世話を御願s なさい。朝は昧いから起きて夜遲くまで、火も焚き水も汲へ、 炊事雜巾掛け、何から何まで御奉公人と勵み合つて働かなく( てはいけません。嫌だなんぞと云つても既承知仕ません。さあ 丁度宜い、妾と一緒に、判然と改めて今後の御世話を御願ひ御 仕なさい。考へて居る事も何も有りは仕ません。』 其二十八 『然樣まあ叔母さんの御言のやうにばかりもお龍ちやんにやあ なるまいけどもネ、ネエお龍ちやん、聞けばお前も彼の御師〓 さんていふ人の胸の中が解つて居ないぢやあ無いしするのだか ら、他のいろ〳〵の事は後廻しに仕て置いて。何樣だエ、彼家 を出ることだけは先あ兎も角も出ると決めては。」 もとよりお關には密に愛想を盡かし居れるなれば彼家に居りた き事は微塵ほども無きなり、且つお形に如是優しく云はれては 背かうやうは無けれど、今彼處を去りて離れんは、春の野行き したる折、圖らずも乘つたる田舍渡しの襤褸舟より振顧り視た る岸に、落ち零れの菜の花のしをらしくも咲きて、歪める茅屋 の背門に桃の盛りなる風情などを見出し、とても何時までも眺 むべきにはあらずと思ひながらも今少時は目にしたきを、野川 の甲斐無く小くて早くも着きたりとて逐ひ上げらるゝ時、猶未 練に其の船の中の戀しき樣なる心地のして、頓には何とも答へ わづらひたり。されども何處から何處まで氣の走るお形に、彼 處を去りてはおのづからに水野と縁の遠くなるべきまゝ其を厭 ひて見す〳〵惡い人と知れるお關が許に居たがるかと思はれん ほども物憂くて、 『そりやあ妾だつて彼家に居たいことは有りませんが、でも彼 家を出てからの妾の行先が定まらなくつちやあ。 と僅に語のみを出して〓え切れぬ答をすれば、 『だから此方樣に置いて頂くやうに妾が願つて居るでは無いか、 分らないネエお前つて人は。」 と横合より叔母は焦曝に焦〓ぬ。 『ホヽ叔母さん其樣に御急きなさらなくつてもの事ですよ。 ぢやあお龍ちやん、お前も彼家に居たい事は無いのだから、彼 家は出ることに定めて御置きで、そして其の次にお前の行く牛 を腹一杯に御考へが宜いぢやあ無いか。何日だつたか何かの話 の序に、妾あ自家が富裕でお孃樣で居られるやうな身なら、畫 をかいて一生遊んで居たいと御云ひの事があつたが、今でも若 し其樣な心持を有つておいでヾ、そして畫でもつて遣つて行か うといふやうな氣でも御有なら、そりやあ其でもつて妾が何 樣ても仕てあげるが…。遠慮無しに何でも思ふ通りを云つて 御覽な。畫を〓はうといふやうな氣も今ぢやあ無いのて、習や あお前は屹度出來る人だよ』 『いゝえ、もう其樣な事は些も思つてや仕ませんは。これでも 自分の天禀か大した上手になれない位の事も分いないほどの盲 目ぢや無いのですもの!。』 「ちやあ鳴物は一體お前の性に合つては居るし、身に染みてほ んとに好ちやあ有るし、若し音樂ても學つて見やうといふやう な氣なんぞも無くつて!。 『まあ厭ですネエ、人に教へたり人に聞かれたりするのは妾あ 餘り好ぢやあ無いんですもの。』 『ホヽホヽホ。他にお龍ちやんの好な事は無いし。ぢやあ藝事 で身を立てやうつて氣も先あ無いのだから、修業沙汰なんかは 切御やめなのだネエ。』 『だつて今更、何か爲て一人で何樣の彼樣の仕やうつていふや うなことも思つては居ないんですもの!。。 其二十九 『でも、それかと云つて叔母さんと一緒に田舍へ引込んで仕舞 つて、叔母さんの鑑識で持たせて下さるお婿を持つて暮さうと いふ氣は無いと再々御云ひぢやあ無いか。』 「そりやあもう然樣ですとも!。妾あ何樣あつても、何だか分 らないで牛か馬みたやうに持いでる田舍の人の、御飯を喫べる ために生きてるつて云つたやうな其樣な分らない人と、一生暮 すなんかつていふ事は到底出來ないんですから。』 叔母は堪へかねて口を挿みたり 『それ、それ、其の根性が碌で無い、正當で無いのだよ。傍目 もふらずにせつせと持ぎ通すのが上人といふもので、お前のや うに何だの彼だのと下らない事ばかり云つて居るのが間違ひき つて居るのだ。皆誰だつて御飯を喫べるために持ぐのぢやあ無 いか。喫べる爲に持が無くつて何樣なるものかネ、下らない。 だつて其樣なに大騷ぎを遣つて御膳を食べりやあ其でもつて 何が嬉しいの?。』 「そんな馬鹿な氣樂なことを云つて居るから皆お前の考は間造 つて居るのだよ。人間つてものは三度三度御膳さへ滿足にいわ だいて行かれりやあ其で結構なので、嬉しいも嬉しくないも要 つた事あ有りや仕無い。お前なんざあ甚い苦勞といふものを仕 た事が無いものだから、其樣な下らない事ばかり云つて居るん だよ。』 『御膳を食べるばかりに齷齪して死んで仕舞ふのだつて、何程 下らないか知れや仕無いは。』 『ホヽヽ、お龍ちやんお前が惡いよ、目上に逆らつて!。第 談話に枝が咲いて仕舞ふはネ。ぢやあお前は稽古事は爲る氣は 無し、靜岡へは行くまいと云ふし、何樣仕やうと御云ひなの? 妾の處へ來て妾の遊び相手になつてお呉れの積りなの?。」 「……、』 一いエもう遊び相手なんぞと仰あやると直に増長致します、矢 張り引遣つて遣ると仰あつて下さいまし。』 『お龍ちやんが默つて居ちやあ仕樣が無いぢやあ無いか。默つ てるところを見ると吾家へ來るのも厭なの?。』 『厭つて事は空末も有りやあ仕ませんけれども‥‥』 『ぢやあ何も其樣なに考へてゐる事は有りさうも無いものぢや 無いか。」 「ても姉さんのところへ來て居ると…。 『何か厭な事があつて?。」 『いえ、然樣なのぢや有りませんけども餘り叮呼に仕て下さス んで、-まるで眞實の妹かなんぞのやうに、御孃樣あつかひ に仕てくださるので、何だか居辛くつて仕方が無いんですもの。 此の春だつて然樣なのですよ。彼の時は彼樣した譯で二度と妨 さんにやあ御目に掛らないつもりで出たんですけれとも、後に なつても一つは其の爲に此方へは歸つて來なかつたので。彼の お師匠さんのところに居ることに仕ましたのも、いろ〳〵の事 を云つて引留められるからばかりぢやあ有りませんので。彼家 に居りやあ居るだけの事を爲て報復しますけれども、姉さんの 處に居ますと、何一つ用事を爲るのぢやあ無し、着物も美麗に 仕て下さりやあ髮から穿物まで氣をつけて下さる、それで三度 が三度とも据膳に對つて、姉さん同樣に御給仕をされて御膳を 唄くのは、妾にやあ何だか結構過ぎて濟まないやうな氣がすス のですもの!。小間使や何かと一緒になつて何か用を仕やうと すりやあ、お止し、お止し、不見識だよ、つて姉さんが御止め なさるのですら、あれだけ御厄介になつて居た中に姉さんの 爲に何か仕たと云つたら、たつた一遍相思鳥の餌を摺つたこと が有るつ限りなのですもの。何程兒童の時から一緒に寢たりな んか仕て、姉妹よりも仲好く暮して來たからつて、妾あ姉さん にやあ縁も由縁も何も無い身だし、そりやあ今が今でも姉さる の爲になら火水の中へなりと入らうつていふ氣だけは有つて居 にすけれども、今日までのところぢやあ何一つ姉さんの爲に什 た事でも有るぢやあ無し、ただ甘つたれて可愛がつて貰つて居 たと云ふだけの事なんですから、そんなに好くされるやうな譯 は有る筈が無いので、何樣も妾やあ氣が狹小なんでしやうけり ども氣が咎めてならないのです。ですから、いつそ叔母の言葉 の通りに扱き使つて下さるならば、願つても姉さんの傍へ置) て頂きたいのですけれど、何樣も姉さんは姉さんの氣象でも( て然樣は仕て下さるまいと思ふと、何も仕も仕無いものを餘り 好くして下さるのが、妾にやあ心苦しくつて居られないのです から。』 「オヤ、オヤ、お龍ちやんは大〓他人兒におなりネエ。わかつ だよお前の優しい奇麗な心持は善く解つたよ。何かと思つたら、 ボヽホヽホヽ其樣な事だつたの!。つい過般までのお龍ちやん は此樣な人ぢやあ無くつて、花簪の大いのをお悦びだつた頃 といふものは、何を買つて呉れ、彼を買つて呉れつて妾をせび つちやあ、稀に買つて上げ無からうものならプーツとお膨れで ネ、夜になつて一緒に寢ても彼方を向いて口一つきかないで、 そして足でもつてぼん〳〵と妾をお蹴だつたぢやあ無いか。』 『あら厭な姉さんだこと!。兒童の時の事なんか御云ひ出しな すつちやあ。』 『ホヽ、そのお能ちやんがまあ大〓にませて、ほんとに遠詰 深くお成りのネ!。いゝよ、其なら其て其の樣に爲るから。〓 やあ吾家に居ることにお定めが好いぢやあ無いか。」 お龍は辭せんとして今は辭する能はざる境に臨みぬ。お關の許 を離れてお形の世話になる事の嫌なるにはあらねど、何故にふ 前の日と今日とはお形の語氣の異ひて、彼の水野をば悦はぬ氣 なるが何と無く心にかゝりて、此の人の許に明日よりの我が自 を寄せんことの何かは知らねど窮屈いしき心地して、嬉しかヲ べき筈の事ながら然のみは嬉しからぬなり。 其三十 色ある蓋のいと艶に美しき電燈の下、上座にお形、やゝ隔たり 下つてお龍の叔母、それよりまた下つて坐れるお龍の三人は 今しも夜食の膳の既に引き去られたる後を、心靜かに茶に物語 るなり。 二人三樣の心の思あれば面の色あり。お龍はおのが頼まんと即 ひて來しことは自然と半分は餘所にされて、思ひもかけざりし 我が身の上の彼家を出でて此家に居るべきやう定められたるに、 可厭といふでは無けれど何となく勇まぬ心地のするか、常とは 違ひて沈めるやうなり。お龍が叔母は、全く我が思ふ如くにな りたりと云ふにはあらねど、兎に角お龍を我が嫌ふお關が許よ り移し奪ひて、豫てお龍より聞きしに違はず富みて美しく智慧 深き此家の主人が許に預かり貰ふ事となりたるに、心安堵き 莞爾つき勝なれば、根は善き人の徴とて顏に曇りなく、例の小 なる三角の眼さへ、其の眼尻に寄る小皺に却つて可愛らしく貝 ゆ。たヾお形のみは心の動くこと無くてや、能く笑ひ能く語れ ども悦べるともなく樂まぬとも無く平然として、今猶前刻の如 く澄まし返つたり。 お龍は何をか思へる、沈默りて頭を垂れつ、〓に譯も無く自己 が衣服の袖膝なんどに吸ひ出されたる綿を摘みては除り摘みて は除りながら、人の話をのみ聞きて居れば、叔母はお龍が樣子 などには眼も遣らずして、 「どうも誠に種々有り難うございます、お蔭樣で私も安心い たしました。では私は直接にはお關に會ひませず、此儘で國 歸りまして、憚りさまでございますがお關の方の事は、一切止 方樣次鎗に願ひます。若又全然握り拳でも濟みよせぬやうの事 でございましたならば、惡い奴に關りあつたのが不祥でござい ますから、三十四十の金を出し惜みは致しません、御話さへご ざいますれば直にも差出します何る彼も此女の爲宜かれと思 ふからの事てございますら忍耐も致します。全く彼樣な奴〓 廿錢一つ呉れて遣ります因縁は無いと思ひますけれど些、些少 ばかりの事で煩い關係を殘すのも可厭ですし、此女と彼の婆と 往來ブ逢ひました時、此女に氣の怯けるやうな思ひをさせるの も可厭でございますから、其の位の事なら出しも致しましやう と思つて居りますのです。其〓は御含み下さいまして、何樣づ も宜しいやうに御計らひを願ひまする。此女の上は改めて今日 私から御縋り申して御願申しまする。至つて我儘な無分別〓 てはございまするが、心から底から惡い奴といふのでも無いや うでございますから、何樣か十分に御博酌なく御便ひなすつて、 そして其中相應なものでもございました時に、御鑑識で夫で〓 持たせて遣つて下されば其上はございません。私は斯樣ながさ つ者でございましても、姪一人叔母一人でございますから此を を棄てる氣はございません。何處までも好くして遣りたいのは 山々でございますが、とても私には制道の付きかねる氣〓ぐ れ者めでございますので、此方樣へ願ふよりはかには願はうと ころも無いやうな譯でございますゆゑ、御迷惑でもございまし やうが何樣か御世話をなすつて下さいますやうに、汚い婆でご ざいますが是でも人樣の御恩を忘れるやうな獸畜でもございま せん田舍者が、折入つて此の通りにお願ひ申します。 と、云ひさま頭を下げて染々と眞心せめて頼み聞えつ 『歸りましたら早速衣類も送りましやうし、又、當人の小遣な んぞは御厄介にならないやうに致しましやう。萬々一當人が不 都合な事でも仕出しましたらば、決して御迷惑は掛けませぬや フに、屹度私が引請まするから、何卒御奉公人同樣に御扱ひ なすつて、末々を宜しく御願ひ申しまする。ほんとに少い時か ら御馴染申したのが當人の幸福とは申しながら、是といふ譯も 無いのに斯樣な我儘者を御願ひ申しまして、そして快よく御引 受けくだすつて頂くといふのも、思へば餘り有り難過ぎまして、 何だか不思議なやうな氣が致します位でございます。」 と眞顏になつて恩を謝するを、お形は婿然と打笑つて 「なあに、其樣なに恩に被て下さる事は有りやあ仕ません、人 は各自の氣性で種々な事を爲るのですもの!。好いた盆栽の世 話を仕たからつて、盆栽に御禮を云はれやうつて思ふ人は一人 も有りやあ仕ません、ただ其の樹が好くさへなりやあ其が嬉し いので。不思議な事も何も有りやあ仕ませんは、妾あ一體お龍 ちやんが好きなんですもの!。ただお龍ちやんが好くさへなつ てお呉れならそれで本望なので、何樣なにか嬉しく思ふか知れ や仕ません。」 と輕く答ふれば、何不足無き人の氣の持ち方はまた違ふもの 世には此の樣な人も有ることか、と田舍者の我が心の狹く堅く ろしきに比べてつく〴〵感じ人る時 『あの、お富の親父でございますつて、妙な老夫さんが御臺所 口へまゐりましたが、お杉さんも知つて居る人のやうに見えま す、何樣致しましやう。』 と、其の來れる客の如何なる人なるかを小き胸に危むが如ふ眼 色して、年若く可憐らしきお春は取次ぎたり。 『いゝよ。彼方へ行つて會ふのも面伊だから、此室へ連れてお いで!。』 『お富の親つて、彼の妾の好きなお富さんの?。』 『アヽ、彼女の。』 『彼女は退つたの?。』 『いゝえ、然樣定まつた譯ちやあ無いが、大方それで來たのだ らう。』 お龍とお形との間に問と答へとの交はさるゝ間も無く、お春〓 迫かれて屈みながら此方へ來れる男は、お形の面をば見るや見 ざるや、室の内へは入りも得せず恐れ〳〵て鴫居の外に坐りつ、 先づ其の瘤せ枯びていと薄く長う見ゆる掌を疊に並べ貼けて 頭を其の上に摺りつけ町〓嚀に挨拶したるが、電燈の鮮やかなそ 光りは、光澤無き細き毛の烟のやうにほや〳〵と薄く殘れる頭 〓を照らして、悲しき老のさまを見はし、左のみ見苦しき襤褸 を纒へりとにはあらねども、肩窄りて何處と無く寒げなる樣子 は、見るものをして此の人貧に窶れて苦めるにはあらずやと〓 はしめたり。 其三十一 『好くお入來だつた、さあ遠慮仕無いで此方へ御入り。』 と、お形に優しく言葉を掛けられて、老人は漸くに頭をこそ擡 げたれ、 『ハイ、ハイ。』 とばかりにて猶中々に席を進まず。 『お富は何樣仕またえ?。」 と、親しげに復問はれて、 『ハイ、ハイ。イエ、どうも不都合な奴でございまして、何共 ハヤ、どうも申上げやうもございませんで。』 と、〓け上りたる額、細き鼻、たださへ貧相の面に虚僞ならぬ 當惑の色を見し、甚く恐縮して同じ樣の事のみを云へるは、傍 眼のお龍にさへもどかしく聞えたり。 身に光澤も無く氣に張りも無くて、ただ老猫の寢ぼれたるやう の、此の老人の樣子を、お形は心底より可笑がりてか、唇の湯 にちらりと笑をば上せしが、忽地にして自ら抑へて、 『そんなに謝罪つてばかりおいでぢやあ話が出來ませんよ。何 樣しただえお富は?。」 と、極めて平穩に問へば、老人は辛くも力を得たりと覺しく 「ハイ。イエ、どうも飛んでも無い大變な過失を彼女が致しま して、』 と云ひかけて復叮嚀に頭を下げたり。 矢ふべき事にはあらねど何と無く其の眞面目過ぎ萎縮過きた 樣の、氣の毒らしきを越して稍可笑きに、お龍は思はず眼のる に笑ひたり。 『そんなに謝罪つてばかり居ないでも宜うござんすといふのに。』 「ハイ、イエ、然樣仰あつて下さいますと、愈恐れ入りますの て。廻りくどうございましやうが御詫を申し上げます、何卒知 聞き下さいますやうに。もうこれお詫にも出そびれて十日ばか りになりましたが。然樣、エヽト、コート、丁度今日で十一日 になります。彼女が貴女、眞青な顏をして駈け込んでまゐりま して、御主人樣の御大切な御菓子鉢を仕舞はうとする時、つい 取り落して割つて仕舞つたと申すのでございます。」 『ハア、大方其故で駈け出して行つて仕舞つたのだらうと妾も 思つて居たが、今に何とか云つておいでだらうと思つて人もあ げなかつたの。然樣です、古渡りの繪南京の、一寸無い鉢を破 つて仕舞つたので。」 『ハ、ハイ、ハイ。どうも飛んでも無い殖忽を致しました事で。 其品は利齋とか仰ある方が納めました品でございまして、其折 色々と其の仁が其の御器の結構な事を御話しなさいました其談 をちら〳〵彼女が承はつて居つたさうで、何も分りません彼 女でも大〓結構な費い御品だといふ事だけはイじて居りました 砲、これは御詫の仕やうも無い事を仕たと、ト胸を衝いたと申 すのでございまして。何樣も何ともハヤ和濟みません事で。ハ イ、ハイ。それら私が費女、代りの品を差出しまして御勘 辨を願はうと存じまして、彼女と二人で東京中を搜しましたが、 中々どう致しまして似たやうな品もございません。」 『まあ詰らないそんな餘計な苦勞を仕て貰はうとも何とも此方 ぢやあ思つて居も仕ないものを!。」 『ハイ、ハイ。まことに何樣も恐れ入りましたことで。然樣〓 あつて下さいましても、夫では濟みません譯で。貴女、彼女が 此方樣へまゐります前に御奉公致して居りました御邸は伯爵樣 とかでいらつしやいましたが、彼方樣では都べて女中の毀しま したものは皆其の毀したものが償ひまする御定規でございまし て、彼女なぞは頂戴するものが少うございますから、始終持出 しになりますやうな事でございました位で。』 『ヘーエー。』 「でございますから貴女、私は一生懸命に搜しまして、終には 利齋といふ人まで尋ねまして仔細を話しまして、これ〳〵の鉢 が欲しいと申しましたところ、今欲しいと云つても今有るもの でも無いし、有つたに致しても如是の價のものだと承はりまし て、私連の力には及びかねます大變なものでございましたので いよ〳〵吃驚致しまして、とてものめ〳〵と御詫に出られた段 ではございませんが、死ぬやうな氣になつて漸つと今日御詫に 出ましたで。』 こゝまで云ひさして埋むるが如く疊に頭を擦りつけたる時、蒲 き髮の下に透きて見えたる頭顱の地には、如何ばかり弱き心の 苦しくや感じけん、慚かしさと切無さに絞り出されたる熱き汗 の點々と玉をなして、蒸氣さへいさゝか立つごとく見えたり。 其三十一 『何樣も何と申上ましても相濟みません無調法で。ハイ。口ド かりで何を申し上げましても、實以て相濟みません譯で、ハイ お羞しいことを申し上げませんければ理が聞えませぬが、實は 段々と不幸は續きますし、私は病身で商法は止めて居りますし、 少しばかりの地所家作で細々と遣つて居ります中を、不孝者に の伜に大無しにされまして、まことにはや何樣も斯樣もならい やうになつて居りまするので、ただもう明暮、伜めの碌で無し の料簡の直りますやうにと、信心を致すのを今日の勤に致して 居るやうな意氣地の無い次〓でございますから、何共恐れ入よ まする身勝手な申分ではございますが、今が今何樣にか致さう と致しますれば、私一人のところへ夫婦掛向ひの人を置きまし て、その貸間の料で食べて居りまする住家をでも、何樣か致し て築段致すより他はございませんので、それでは何樣も後々の ところが‥‥〓 貧相な顏をいよ〳〵貧相に仕て困難の趣きを述べ哀愍を乞はん とする、其の言語は人の同情を惹くに足るほどの氣合さへ乏し けれど、其のくど〳〵しく惡町〓なるに思直さは盡く知られた お形は最早聞き居るに堪へかねてや、言葉の澱みに付け入りて 又靜に又爽快に、 『まあ其は大〓に心配をお爲だつたねえ。お前さんは當世にあ 珍らしい律義な氣性なこと!なあに彼樣な鉢の一つや半分 麁忽で毀したものを何で妾が償へなんぞといふものですかネ。』 と云ひ出せば、老人は何と聞き取つてか慌てゝ遮りて 「ど、何樣致しまして貴女、伯爵樣の御即でさへ、』 と、身に入みて記えたる事にても有るなくべし、伯爵邸の定掛 を例に引きかくるを、二の句を續がせず、お形は冷やかに笑へ たり。 「まあ御聞きなさいよ。伯爵樣の御邸は伯爵樣の御邸で、妾の 家は妾の家ですよ。いゝ身分の方の眞似を妾等が仕ちやあ成り ませんからネ。金屬でゞも有りやあ仕まいし、根が磁器ですに の、破れることも有りましやう、其の磁器が危忽で破れたのを 何樣まあ酷く咎め立を仕ましやう!。 『ハ、ハイ、ハイ、ハイ。』 激しく感じたるならん、氣息の詰まるやうに老人は急き込みて 挨拶したり。 「それも平常の勤め方でも惡いといふのなら叱言を云ふまいも のでも有りませんが、何も彼も悉皆好く爲て呉れて居る彼のお 富の爲た過失ですもの!。』 『ハ、ハ、ハイ、ハイ。』 『少し位の品を毀したからつて何を云ひましやう!。使つてる 中に器物が毀れるのは當然の事で、其を厭やあ箱の中へでも藏 つて置くより他有りやあ仕無いと思ひますよ。器物をいたはつ て人をいたはらないやうな事は妾あ大嫌ひで、あんな磁物を十 個集せたつて百集せたつてお富が出來るのぢやあ無いんですも の、幾干お富の方を大切に思つてるか知れや仕ません。」 『ハ、ハ、ハイ、ハイ。」 『だから過失は過失で、一言詫を云はれりやあそれまでヾ濟ま して仕舞ふがネ、それよりやあお富が大變に濟まない事があり ますよ。』 『ハハツ、ハイ、ハイ、ヘイ。』 「其あ默つて駈け出して仕舞つて妾に不自由をさせたことです。 何も彼も彼女にさせて居るのに、急に出て行かれちやあ何樣な に不自由に思ふか知れません。丁度好い代りが有りは有つたや うなものゝ、眞底詫びる氣があるなら、歸つて來てちやんと勤 めつづく方が何程好いか知れやしません。」 「ハヽツ、ハイ、ハイ。で、では麁忽を致しましたのは御免し 下さいまして、そ、そして今迄通り御使ひ下さいまするので。」 『使つて遣りますとも、使つて遣りますとも!あんな忠義も のゝ氣立の好い兒が、磁器の三つや四つ破したつて何の何とに 思ふもんで。」 『ハアーツ、有り難うございます、有り難うございます。早速 彼女に唯今の有り難い御思召を申聞かせませんでは。」 老人は嬉しさに泣かぬばかりの顏して、許しをさへ得ば立たん として追立尻になつたり。 『お富に話すつて、近處へでも連れて來て居るのゝ。 「ハイ、イエ。一緒に連れてはまゐりましたが、御裏口の戸外 に立たせて置きましたので』 『ホヽホヽ、愍然に!。何だつて戸外になんか立たせて置くの だらう、早く此方へ連れておいでなさい。 其三十三 『妾は東京にやあ今時彼樣いふ人は無からうとばつかり思つて 居ましたか、たまには矢張り彼樣な正直な篤實の人もございま すのネエ。』 お龍の叔母の如是云ひ出づるを主人に答へさする迄も無く、お 龍は代つて、 『そりやあ叔母さん東京だつて狡〓い人ばかりぢやあ有りませ ん、廣いんですもの。今の話の伯爵のやうな卑格な人も有る代 りにやあ、姉さんのやうな氣の大きい人もあるぢやあ有りませ んか。』 と云へば、 『ほんにね!。だが、其樣なに高い磁器なんかが有るものか知 ら? といふ。 『なあに、高いと云つたところで多寡の知れたものですが、つ まり氣の小い人にやあ何樣なものでも大したものに思へるので ねえ、それで大變に心配したでしやう。』 とお形の打笑ふ此の問答の中に老人は復入り來りしが、背後に は恐れ惶みて小くなりたる若き女を連れたりお龍の叔母は何 氣無く打見やるに、面貌は老人を其儘に眼も細く鼻も細けれ〓 眺きかたにはあらず、卵子形の顏の上品に優しくて、慾には色 のやゝ青白く束髮の毛の纖過ぎて嵩少きを治して遣りたけれど、 年齡には似氣無く靜に沈着いたる樣如何にも恰悧らしく、お龍 には慥に三歳四歳劣りなるべけれど、見比ぶればお龍の方若く 浮々として、〓に生死の苦勞を知れるにも似ず猶あど無く見ゆ 今の談のお富とは是なるべし、成程平常は過失など中々仕出す まじき愼み深げの、氣の能く廻りさうな、くすみたる女かな。 これで若し此程に縞の粗き銘撰を着居らずば、能く見ぬものは 二十歳とも見做すべしと一度は思ひしが、流石に年齡は年論な り、主人と眼を見合すや否や、いと幼き素振りの繕ひ氣も無く 頭を疊に着けて、 『飛んでも無いぢ忽を致しましたのを、御免下さいまして眞に 有り難うございます。それから御斷りも致しませんで宅へまゐ りましたのは猶相濟みませんでございました と素直に謝罪れば、お形は莞爾やかに、 『平常のお前の仕方が好いから叱らうとも何とも思つてや仕ま せん。過失は過失たから仕方が無い。これからさへ氣を付けて お呉れなら其で可よ。さあもうをかしな顏を仕ないでお前の馴 染のお龍ちやんにも挨拶をお爲。 といふ。叱りだにされず免されたる嬉しさに、さしぐむ〓の目 をあげて、さてそつとお龍を見て懷しげに叩頭すれば、お龍に また懐かしげに其方を見やりて、 『お前さんが此方に見えなかつたので、妾あ何樣なにか眞斷ず 淋しく思つたらう!。丁度好い事ねえ、かうして歸つておいブ だつたのだから、またこれからお前さんと仲を好くして、先の やうに又毎朝起して貰ひましやうかネエ。ホヽて。 と境無きことを早語り掛く。 『また其樣な下らない好い氣ぜんの事をお前はお云ひだよ。 古々しげに叔母はたしなむるをお形は餘所に聽きて、茶をや徃 んとする、お春〳〵と呼ぶに、お春は如何にしけん更に出で來 らず。かゝる事を甚く悦ばぬお形の、聲こそは仂無く高めね 『お春、お春、』 と復呼べども更に答へなし。 『お春!。何樣したえ?お春!。』 一ト聲は一ト聲に癇の募るさま歴々と見ゆるに、 『何でございますか、妾が』 とお富の立ちにかゝる時、臺所とおぼしきところにて、 「お春さん、お春さん、御召しなさるやうぢや無いかえ。おや、 お前さん、何を泣いて居るの?。」 とお杉が平素馬士聲とて叱らるゝいと大きなる丈夫さうな其の 馬士聲の聞えぬ 其三十四 「鶉といふ鳥は自分の身から出る香氣を止めて仕舞つて、獵犬 に嗅ぎ出されないやうにする機能を有つて居ると銃獵者に聞い たが、お形、汝は一體が嫌に治めきつて居やがつて、そして時 時碧のやうな藝をする奴だなあ。』 とは甞て筑波が〓醉の後に罵りし語なるが、吉に遇ひても齒觀 を露はして笑みくつがへる程は悦ばず、凶に遇ひても眉を皺め て沈み入る程は悲まで、何時も自分の顏つきの不齊の無いやう にと心がけて居るでも有るまじけれど、自然と胸の中のさまを 鮮やかに他人に讀めるやうには面に出さぬお形も、烟草には棚 草の蟲の有る道理にてや、矢張り或機には心の悶をば盡く面に 現はすなり。 何時の事なりけん、一劇場に西洋婦人の奇術の興行の有りし時、 『姉さん、大變に面白いといふ噂ですから連れて行つて見せて。」 とお形に請求りけるに、 『觀たけりやあ汝一人で行つて御覽な。魔術は妾あ大嫌ひだよ。」 と膠も無く云はれしより不圖お龍は心付いて、差當り我が智護 にて何共解らぬ事にあへば、お形は甚く面白からず思ふと見え て、必らず可厭な可厭な顏して不快さを示すを知りぬ 何事の悲しくてお春は泣けるぞや、誰も其の故を思ひ得しもの は無けれど、誰もまた其の故の分らねばとて何と思ふも無きに、 お形は例の我が合點の行かぬといふことをば強く忌々しがつて 其の故を解かんと、苦み悶ゆるなるべし、たゞ轉瞬するほどの 刹那の間なれど、星のやうなる兩眼をやゝ寄せて上眼づかひし たる其の樣子、何とも云へぬ可厭なところありて、牙彫の小町 のやうな中分無き眼鼻立の美しさをも人をして忘れ果しめたり。 かねて心づき居たればこそ、お龍ただ一人はお形が其の不快げ なる面を爲したるを早くも見たれ、他の人々は更に氣の付かぬ 間に、其人は復忽ち舊の樣子になりたり。 お形はお春に復び管はず、お富に命令くればお富は心得て、人 人に茶を侑め菓子を薦めなどしけるが、其の中良久しくお杉お 春は何をか語りける、やがてお杉は次の間に來りて打笑ひなが ら、 『お春さんの泣いて居りましたのは斯樣なのでございますよ ほんとに可憐らしいぢやあございませんか、あの斯樣なのでご ざいます。お富さんていふ方が歸つておいでになれば妾はお暇 になるでしやう。折角こんな好い御家へ來合せたのに、また吾 家へ行くのかと思ふと餘り情無いので、今伺つて居れば結構な お道具をお富さんていふ方が麁忽なすつても、器物よりやあ人 か可愛いと仰あつて御叱言も無くつて濟みましたが、其のお優 しい御話を伺つて居る中に妾あ胸が痛くなつて參りました。つ い先月の末、詰らない茶飮茶碗一つ妾が麁忽して破りました時 は、そりやあ繼母の事ですから仕方も無いのですけれども、妾 の一時間も二時間も口ぎたなく叱られました上、終にやあ性の 付くやうにつて火の點いて居る煙管の雁首をしつと手の甲に捺 し付けられました。今の御話を伺つて居る中に其の事を思ひ出 しましたら、妾あ猫になつても宜うございますし、御膳を頂か なくつても宜うございますから、何樣か此方の御家の何處かの 隅へ置いて頂きたい氣が仕て‥‥何樣せ何も知ませんので御役 には立ちませんし、無盆ですから、置いては下さいますまいつ 〓、それでつい、泣いて仕舞つたといふのでございます。ほん とに聞いて見ますりやあ繼母だもんですので愍然でございます か、猫にでもなりたいなんかつて、ホヽヽヽ何ぼ何でも可笑。 ございます。併しそれに付けてもよく〳〵だと思はれます。 と告げたり。 聞けば何でも無き事なるにお形は晴やかなる面して、 『ホヽ、何かと思つたら其樣な事なのかえ。愍然さうに、其 樣なに居たがるものなら置いて遣りましやう。恰悧で、そして 毅然としたところがある中々の好兒だから。 と云へば、其の語を聞きて物蔭に居たりしお春は如何ばかり據 しくや思ひけん、誰が面前に居るとも無きところにて唯主人の 方に對ひ、墨に手を〓き頭を下げて恩を謝したり 先刻より始終を見聞きせるも、お富は云ふに及ばず、お富の 父、お龍、お龍の叔母、お春、お杉の末に至るまで、誰か今寛 大にして情ある此の家の美しき女主人に心を寄せざるもの有ら ん。あはれお形は一つの器を失つて六人の心を得たるなり。 お形も流石に心樂しきなるべし、鶉のやうなる藝をすると云は れし人ながら、例の治め切つたる顏つきの口の邊に、見ゆるか 見えぬほどの誇りの笑を含みたり。 其三十五 お形が分別に長けたる事は對談の中にも知りしが、今又眼のあ たりに其の胸の廣く慈悲の厚きをば見て、隨分負けぬ氣のお龍 の叔母も全く我を折り盡くして、好いと思ひ込めば何處までも 好いに仕て終ふ田舍氣の正直三昧に、此の人にさへ頼み置けげ 何樣轉んでも間違無しと盡く信じて、何分宜しく願ひまするを 百遍ほども云ひたる末、何事もお形任せにして其次の日に靜岡 へ歸りぬ。 『お龍ちやん、お前一寸今までの居處へ歸つてネ、叔母のいひ つけで今後これ〳〵のところに居るやうになつたといふ事だけ を斷つておいでな。」 叔母の歸郷を停車場まで送つての後、何を思ふにや茫然として 爲す事も無く居たるお龍に向つてお形はかくの如く云ひ出した り。お龍は迷惑さうに眉根を寄せながら、何の思案も無く、 『行かなくつちやあいけませんかネ、ネエ行かなくつちやあ。」 と、然も〳〵其の事の宥免を乞ふが如くに云へり。 『ホヽ、嫌なの?其樣に。怖いやうにでも思つてり。』 『怖いつて事は有りませんけれどもネ、今日つから御暇を致し ます、左樣ならつて云ふのが何だか云ひづらいやうな心持がす るんですもの。』 「だつて何もお前が不義理なことを爲るつて云ふのぢやあ無し、 お前にも分つて居るとはり先方のお腹の中が良くないんだから、 ことわりを云ふだけの事に譯は無いぢやあ無いか。 「そりやあ、理屈は、もうほんとに其通りなんですけれども。』 「ぢやあ、また、何故ネエ?。 一何だか妾にも理由は分りませんけども、妾にやあ判然と斷り が云へさうも無いんですもの!。心はほんとに可厭な人ですは れども、表面だけにしろお龍〳〵つて可愛がつて呉れまして、 斯樣やつて衣類も着せて呉れますし、一個あるものも半分は取 り分けて呉れるやうに始終爲れて居るんですから、いつそ惡口 ても云はれて喧嘩でも仕たら妾の胸の中を有り體に云ひ出す事 も出來るか知れませんけど、〓でも優しい顏を仕て呉れて居ス のに對つちやあ、其樣な譯の有る筈は毫末も無いんですが、何 だか彼家を出やうつて云ふのが我儘過ぎる不人情のことのやう に思はれてならないんですもの。 『ホヽヽ、餘りお前は性分が美〓なものだから氣が弱いねエ ぢやあ思ひきつて特と胃頭から喧唯を仕たら何樣だえ。』 一あら!、姉さんはまあ甚い事ねえ、喧嘩つていふものは自然 に出來るものだのに、わざと噴嘩をするなんて、そんな事があ るの?。』 『ホヽホヽ、あゝ、有るともサ。妾なんぞは仕馴れて居る位 たよ。どうだえ、吃驚お仕かえ、人が惡いだらうネエ。』 『ホヽ、眞實かと思つて居たら戯談ばつかり。 『イヽエ、嚴談ぢやあ無いよ、一寸行つておいでな。一人で心 細いならお富を付けてあげやうはネ。年は行かないけれども大 のしつかり者だら、彼女にすつかり口上を教へて遣りましや う。お前が何にも云はなくつても可いやうに。 「まさか妾だつてお富さんに口上を云つて貰はなくつてもです が、眞實に何樣しても行かなくつちやあ不可のでしやうか?。 如何にも苦しげにお龍は再び尋ぬれば、お形も憐みて一寸考 しが、 『お待ちよ。それほどお前が困るつて云ふのなら、アヽ可いよ 仕方が無い、手紙で云ふことにお爲。さうしたら向から足を渾 んで來るだらう、どうせ一度は膨れつ面を持つて來るに定つて 居るのだから。」 と負けて答へぬ。談話は是に終つてお龍は手紙を認めはじめし か、三行書きては破り、五行書きては丸め、幾度と無く書き損 じたる後やうやくと恐惶まで纒めて、先づ初に世話になりたる 恩を謝し、次には田舍氣質の叔母の片意地なる指揮の負き難き 由を云ひ、扨其後に、我が意よりの事ならねども其方を離れて 此家に留まりあるやうになりたる趣きを記したりけり。 如何ばかり文の言葉は優しく書かれたりとも、吾が物と思ひ込 みたる禽に他家の檐端で鳴かれては堪忍なり難く、お關は慾の 算盤の置違ひとなりたるに手紙讀む眼の玉を〓々とパチ〳〵さ せ居りしが、やがて手紙を揉み丸めて投礫の如く投げ捨て、 『彼女も彼女だが、お形つて奴が忌々しい。誰が指を嘲へて引 込む?。人を馬鹿に仕あがる!。 と男のやうな言葉遣ひして獨り罵りつ、紫色になつて怒り瞋○ たり。 其三十六 『えゝ、ぢれつたいネ、煙草一つ入れるのに何を其樣に愚圖愚 圖して居るのだえ。百足に足袋でも穿かせや仕まいし、宜い加 減に早速と仕てお呉れな。』 樫貪聲に罵りながら、腹立ち紛れの力を籠めてぎうと吾が帶を 緊く締め、猶帶揚を締め、帶留を締むる時、小婢のお熊が馴れ ぬ手つきのたど〳〵しく漸くにして煙草を詰めて差し出す煙草 袋を引奪るやうに取つてばた〳〵と拂き、 『仕やうが無いねえ、此樣に外部に煙草をくつつけちやあ。ま るで毛が生えたやうぢやあ無いか。フツフツフツ。 と吹けば、煙草の粉は空に飛び飛んで、、うつかりと仰向いて、 〓りに怒り立つ主人の面を訝り呆れなから視居たりしお熊が小 さき金壺眼にむざんや舞ひ入りたり。 『アツ、アヽ痛い!。あんまりだこと!。」 思はず叫びて眼を抑へ、泣きながらお熊の俯伏すを、愍み氣も 無く見下して却つて冷笑ひ、 『下らなく汝がぼかんと仕て居るからだアネ。妾の知つた事ぢ やあ無いよ。痛いつても火が入つた程ぢやあ有るまいから、其 樣なに泣く事は無いやネ。さあ下駄を出しておくれ。えゝうぢ うぢして居るネ、分らない!、跳足ぢやあ出られ無いぢや無い か。一々此樣な事までも、ソレ〳〵と云はれなくつちやあ分ら ないかえ、困つた人だネエ。チヨツ、いつまで半間な顏を仕て 泣いて居るんだネ、鼠色の〓なんか零して。火傷へ唐辛子味噌 をつけられた狸に其樣な顏を仕て居るのが有つたつけ。』 と、自己が煩悶の八ツあたりに口ぎたなく叱り嘲れば、惡口た 浴せらるゝには既慣れたるお熊も膨れ返つて、色黒き小き身體 をプリ〳とさせつ、いと狹き額越しに恨みの眼を遣りて、言 葉無くプイと立上り、疊に躓けるやうに歩いて出口の方に至り、 がたりびしりと物音荒く下駄箱に當り散らしたり。 『ぢやあ一寸往つて來るから氣をつけて居なくちやあ不可よ オヤ、狸さん、怒つて膨れておいでだネ。怒つてりやあ睡くな らないから其も宜いだらう。留守番が性も無く坐睡を仕て、魂 魄が鼻の穴から獅子の洞入り洞還りなんかを仕て居られるより やあ、其の方が優らしいから。ハヽヽ、ぢやあ頼むよ御留守番、 好い御土産を買つて來やうネヱ。』 纔に胸の中の鬱々を洩すか、盆も無い惡口に目下を嬲つてお關 は出で去れば、主を送り出して後に殘りしお熊は、室の眞中に 取り散らされたる主人の〓つからしをば片付くるとて、其の 手に衣紋竹を持ちたれども片手は更に使はで、足の先に幾度か 衣類を蹴返し蹴返しつ、終に片手業に衣紋竹に引掛けて壁に掛 けたりしが、たま〳〵催したる噴〓を遠慮も無く大きくして、 『ハツクシヨーン。』 と特さらに我が顏を今掛けたる衣類の胴のあたりに持ち行きつ、 したゝかに汚き唾液の霧を注ぐが如く噴き掛けぬ 土瓶の底を拔き、桶の〓をはじけさするなど、下司の復讎は都 て陰でする習ひなれば、それよりお熊の戸棚捜し仕て、白砂糠 を舐め、奈良漬を荒し、自己が嗜きなものは暴れ食して、蓋物 の蓋を除つて自己が好かぬ鹽辛なんぞに遇へば唾液を仕込で〓 き廻し置くやうの事を仕居るとも知らず、お關は勢込んでお形 が家を尋ねたり 便利なる場處の聊か引退んで靜なるところに、すべて金子の かりたる造りの、見るから知らるゝ其の贅澤さの小〓らしき家 を、此家と尋ね得てお關の訪問へば、折から此のむづかしい世 を餘所にして、此所は日の短い盛りをも長く暮すやうなる長閑 さを現す賑やかなる手物の撥音鮮やかに、二人して彈く絃の音 の冴えて、然も面白げに樓上あるべく思はるゝ奧の方より洩れ 聞え來つ、婢等も其方に耳や奪られ居る、御免なさい、御免な さい、と云へど應ふるものも無く、拭いて除つたやうに奇麗な る三和土の履〓に良久しく立たされたり 其三十七 何知らぬ耳にも面白きは面白く、連彈の三味線の音、急なる時 には玉霰銀盤を拍ち、緩き時には寒水せゝらぎに咽んで、一喜 一低、一挑一撥、前撃は後聲を呼び、後聲は前聲に應へて、斷 えつ續きつする間に、おのづと人の心を攝り去れば、彼は何と いふ曲ぞとも知らぬお春さへ聞惚れて、身はこゝに在りながら 起を彼方の樓上に馳せて、ただ恍然と我を忘れたる折しも、如 るが如く罵るが如き案内乞ふ聲を聞きつけて、吃驚して我に復 り、周章てゝ立出で見れば、衣服こそ見苦しくはあらね、五十 近き女の、たださへ下品に肥りたる平顏を、目に見ゆるほど膨 らませきつたる不機嫌の氣色怖ろしく、嫌味らしく細く剃りつ けたるをかしき眉を擧げ、白請の赤濁りせる汚き眼の小きに稜 立てゝ、『此の小びつちよめが』と云はぬばかりに頭から見下し。 その言葉つきも〓らしく刺々しく、 『お龍に然樣云つて下さい、本銀町から來ましたと。ハイ、然 樣云つて下さればそれで分るのですから。居不在なんぞは使は せませんよ。それあの上調子を付けて居る-彼は屹度お龍に 定つてるんですからネ。 と無遠慮にも程度のあるに、不在を使はれやうかとの先潜り〓 でして、撥音を聞いて其の人を猜することの出來るものやら出 來ぬものやら知らねど、拔けさせぬつもりからの當推に、硝子 箱の中のものを見でも仕たやうに確に其と指して云ひたきま を云ひたり。 其の輕貪さ、其の無作法さ、其の尊大さ、その下作さに、優し きお春は驚き呆れつ、一寸の蟲にも五分の魂魄あれば、胸の中 には可厭な〳〵人と〓蔑みながら、 『お待ち下さいまし、然樣申しますから。 と冷やかに答へて徐々に身を起し、奧深なる樓上に至りたり 見れば主人のお形は常の如く沈着きたる面の色、逼らず急かず ただ白く、下品の人を今見たる目には宛も女雛なんどを見る如に く上品に見え、お龍はまた思はず知らず興に乘り心をはずませ て我おもしろく彈くと思しく、汗ばむといふほどにはあらねど 氣勢込みたる面色やゝ紅色さして美しく見えしが、主人は我が 方を見も返らねどお龍は活々としたる眼にちらりと此方を見し にゝ、ただ一心に彈きつづけたり。遠く聞きしにだに賑やかな りしを、近く聞けば又一ト〓おもしろき絃の色音の、或は強く 撥き或は輕く挑ひ或は彈く彼絃の餘韵未だ消えずして此絃の響 新に起る音と音とは、一條の玉の鎖の環と環と相連り、一聯の 化輪の花と花と相襲なりて、いづくに斷目も見えざるが如くな れば、言を出さん機會を知らずして、困り〳〵て躊躇しけるが、 いつまでかくては濟まじとお龍の傍にやゝ近づきて、 『お龍さん、あの、本銀町からまゐりましたつて何だか可厭な 人でございますが、五十ばかりのお方が‥‥。 と云へばお龍はそれと聞いて、彈く手は止めざれども眼はお形 の方を見て、許可をさへ得ば直にも立つて下に行かん素振をあ らはしたり。お形はこれを見てお龍には答へず、居るか居ぬか 知れざるやうに先刻より我が後の隅にかしこまりて控へ居しお 富を一寸見れば、お富は早くも其の意を悟りて、お春の袂を引 きに引きて樓下に去りぬ 『何?、お富さん、無理に妾の袂を引ばつて。 解し得ぬお春の訝り問ふをお富は冷笑つて、 『何ぢやあ有りませんは、下らないよ、お前さんは。あゝやつ て遊んで居らつしやる最中に下らない事なんぞ云つて行くのぢ もの。御邪魔になるぢやあ無いかネ、何でも自分の仕て居らハ しやる事の腰を折られたりなんぞするのは大嫌ひの御方なんぢ からネ。もう今お龍さんが立たうとなすつただけで餘程可厭〓 思て居らつしやるのだよ。何樣して、そりやあ〳〵御行屆きた とる方だけに恐ろしい高慢の強い御氣象なんだからネ。人が〓 たら待たして置いてお濟みになつた時申し上げさへすりやあそ れで、宜いぢやあ無いかえ。こんどから氣を付けないと、馬庶 だといつて御笑ひになるよ。』 と自己も一度は笑はれたる事のあるなるべし、姉ぶつて教へわ 「然樣、だつて何だかぶり〳〵怒つて居る、やかましい事でも 云ひさうな權幕の人が來たんですもの。」 と、負惜み氣味に辯解を、試みるを、 『何だえ、やかましいことでも云ひさうな人だつて。ヘエー。 ナニ、何樣な人だつて關ふことがあるもんかネ、下らない!. 茨等あ御主人樣の御氣に入るやうにさへ爲りやあ宜いぢやあ舞 いか。ぢやあ妾が待つて居ろつて、待たせて置いて遣りましや う。』 と此は飽まで姉ぶつて入口の方に行きたり、樓上の紡撃は盛ん に續けり。 其三十八 同じ身分ながらも新參だけに我が下につけるお春に對ひては 神經質の本性を露して偶然したる氣の向き方のはずみにかゝり 〓地でも惡き人のやうに、つけ〳〵と思ふまゝを自己が心の銅 るに任せて、年齡の十歳も違ふほど大人ぶりて鋭くも言へ、相 が粗豪からぬ氣象の心細かければ、客に對ひては打つて變つて、 顏色も恭しく言葉も慇懃に、 『さあ何樣かまあ此方へ御上りなさいまして、」 と入口近き一ト室に通して、會ふとも會はぬとも其の挨拶は云 はず、待てと特更には告げず默つて待たせ置き、物の値でも定 むやうに室の中をきよろ〳〵眼に見囘す客を其儘殘して身は蔭 に退き、 「ほんたうにお春さん、何だか可厭な人ネエ。でも宜いは、お 茶と火とだけ與つて置いて、默つて引込んでさへ居りやあ、そ れで濟むのだもの。關ふことは有りやあ仕ませんは、柔軟にあ しらつて、そして無言でさへ居りやあ。妾あ彼方で御用がある か知れないから‥‥』 と云ひさして既樓の方へ去れば、お春は言葉の如く唯護みて火 を運び茶を運べり。 お富が樓へ上りたる時は曲は既終りに近く、やがて二人は彈き 仕舞ひけるが、お形は此の時はじめて莞爾としてお龍を見遣り つ、 「面白かつたこと!久しぶりで二人で彈いたので、だが妾にあ 樂ぢやあ無かつたの、たまに彈いたんだから。」 と、何處に人が來て待つて居るかも知らぬやうに、悠然と云 「あら〓ばつかり、妾こそ姉さんと彈くと氣が詰まるやうな氣 が仕て樂ぢやあ無いの!。姉さんは餘り奇麗に、そして餘りれ つかり〳〵に几帳面にお彈きなさるんですもの!。。 、お龍も是非無く受答へは仕て居れど、此は來客の心にか ればにや言葉つきも聊か早く、お形は今しもお富が薦むる一〓 の茶を然も心好げに飮み味はふにも似ず、此は茶碗を手に取り 上ぐる事だに爲さざるるなり。 『然樣ネエ、どうも妾の彈き方は器械かなんかが動く樣で、吐 か無くつていけないよ。詰り習つて記えたつて云ふつ限りの抜 て、ほんたうは藝事の出來るつて云ふ人の性質ぢやあ無いのだ 不。お前はまた大變に出來不出來がお有りのやうだけれど、今 日のやうに機勢に乘つてお彈きのときは、ほんとに〓らしい位 見事に御出來だよ。詰りお前のは、何樣かした時にやあ、おぼ えたつて云ふつ限りの技ぢやあ無いものが何處からか知らない か出て來るんだネエ。生れついて〓の味といふものを有つてふ いでなんだよ。」 『なあに、然樣ぢやあ無いんですけれどもネ、一人でなんか彈 ゝと、妾あつましらないと思つて彈く時が多いんですがネ、姉 さんと彈いたりなんぞすると、何樣かすると不思議に自分でも 面白くなつて來ることがあるんですの、そして然樣いふ時は屹 度自分の思ふやうに自然に彈けるんですよ。やつばり一生懸命 になるからなんでしやうかネエ?。」 「ホヽヽヽ、一生懸命になりやあ巧く彈けるけれども、然樣で ない時あ彈けないつて云ふんぢやあ、ぢやあお前は横着者見た やうだ事ネエ。』 「ホヽヽヽ、屹度然樣なんかも知れませんよ。でも妾あ故と然 樣やるのぢやあ無くつて、自然に生れついて居る横着者なんで しやうから‥‥』 『惡い横着者ぢやあ有るまいとお云ひの?。』 「ホヽホヽホヽ、』 『ホヽホホヽ、マア蟲が宜いネエ。』 「ホヽホヽ、美い横着者でも惡い横着者でも其りやあ關ひませ んが、樓下の彼の人が待つて居ましやうから…‥ 斯く云ひて立たんとするお龍を抑止めて 『宜いよ、お前はまあ此室においで。妾が會つて談を仕て仕舞 ふから。〓 とお形はやをら身を起したり。 其三十九 こゝに居よと云はれては逆らふべくもあらねば、お龍は殘り止 まりて三味線の絃を〓し緩めなど仕ながらも、我が上に就きて 來れる彼のお關が事の氣になりてならねば、そこら取片付くス お富をば一寸視て、 「お春さんの云つたやうに、ほんに怒つて居て?。 と問へば、お富はさも〳〵其の人を厭ひ嫌ふといふやうに、す らでも淋しき顏を妙に皺めて、 『ほんとに恐ろしくぶり〳〵して居ますの!。まるで御酒にブ も醉つた人のやうな顏を仕まして、」 と先づ答へつ、 『何だか自分勝手の不理屈でも云ひさうな可厭な人ですこと〓 エ。」 と添へたり。 『マア可厭だことネエ!。そんなやうに見えるほど恐ろしい怒 つた顏を仕て居て?。』 『然樣なんですよ、怒り切つて居るといふ顏つきなんです。こ れに一體が地腫の仕たやうな顏なんでしやうかネエ、隨分おそ ろしく膨れかへつて、宛然‥ 『宛然何なの?。自分でばかり承知して笑つて。 『マア止して置きましやう他人樣の惡口なんか。』 『ホヽヽをかしな人ネエ、一人で合點して一人で可笑がつたり なんかして。』 『ホヽヽ、でも惡うございますもの。』 宛然河豚が五合も引掛けたやうと云はんと仕たりし歟、風船球 に眼鼻を付けたやうと云はんと仕たりし歟、終に口を啓かねば 知るものは當人の胸のみ。 『マア勘忍して置いて頂戴よ。』 と輕く謝びて根問さるゝを遮り止めつ樓下に去りたり。 人去つて小樓靜に、刳拔の桐の手爐の小なるを擁して、雪と白 き蠣灰に纖き火〓もて譯も無く假名文字を書きては消し書きて は消しつ、お龍はじつと心一筋に彼方の談話の何となり行くか を想ひやりつゝ、 『彼の勝手の強い慾の深いお師匠さんがまあ何樣な事をお云ひ のだらう。そりやあもう智慧も分別も確固としておいでゞ、而 して言語だつて拙い事なんぞはお云ひで無い姉さんの事だから、 何を對手で云つたつて譯も無く捌いてお仕舞ひなさるには違ひ 無からうが、對手が無茶な人なだけに御困りなさりは仕まいか 知らん。自分の勝手づくに掛けちやあ理合や情合に構つて居る 樣な其樣な上品な人ぢやあ無さゝうな彼の人を對手にして、く だらない惡口や無理な難題でも云はれて困つておいでゞは有る まいか知ら。對手が無茶な人でさへ無ければ宜いのだけれども、 男にでも何でも負けては居ない樣な氣の強い人ではあるし、ま た大變に怒り立つて來たのだとはいふし、一體が勝手のひどい 甚い人だら、いくら姉樣が冷悧でも扱ひ難いかと思はれるが、 まあどんな事を云つて來たもので有らう。若し下らない事を云 つて暇鳴り立てでもされた日には、ほんとに姉さんにお氣の毒 て、妾はまあ何樣したら宜からう。何樣か彼の人が姉さんの理 解に折れて呉れゝば宜いが、いくら姉さんでも對手が惡いから、 何だか覺束無いやうな氣が仕てならない。あゝ氣の揉める。 體まあ今日の談は何樣結局がついて、そして妾はまあこれから 前途何樣なつて行く身なのだらう。。 と取り止まらず物を案じて耳は彼方にのみ走れど、距離隔てわ れば音も聞えず、人もあらぬが如く此家靜なり。 やゝ久くして階段を上り來る人の跫音し、やがてお春は襖を開 きて面を出せば、 『妾に來いつて、」 とお龍は此方より問ひかけたり。 『ハイ、左樣仰あいましたので。』 今さら胸のだくつくやうおぼえて、話の模樣を測りかねつ、お 龍は却つて頓には起たざりけり。 其四十 我が眼の力の及ばぬ閣の夜に歩の進まぬやうに、お龍は鬼胎を 怒きながら室に入りて見れば、朝日の光りのあるところ自然よ 心強きやうの感の仕て、先づお形が平常にも増して位を取つて 沈着き切つたる面の上に、掛れる雲の影だに無き樣なるに氣も 勇み立ち、其の横手の方に、やゝ下りて坐りつ、いろ〳〵の思 に小波の文立つ胸を鎭めて、言葉は無けれど町呼に挨拶したり ちらりと見しお關が顏色の、お春お富が言葉とは違ひて、思ひ のほか平穩なるやうなるに、心ひそかに疑ひながら徐に頭を擡 ぐれば、これはまた如何なることぞやお關は滿面に春を湛へて、 さも〳〵親しげに又懐かしげに、 一マア立派におなりなこと!、吃驚して仕舞つたよ。少し粹だ けれども全然如是ぢやあ立派な御邸のお孃樣だよ。好いことみ 一、お龍ちやんは大變な幸福を御仕ねエ。ほんとにマア〳〵 違へて仕舞ふよ。平常でさへ斯樣ぢやあ外へでもお出の時は ア何樣なに、見事にお仕だらう!。ほんとにお前さんはマア大 變な幸福な身におなりネエ。妾の處なんぞに御在でごらん、〓 程妾がやきもき思つて好遇してあげたからつて、精々外出衣が 銘仙か節糸位の物で、それより上あ妾が千圓の〓にでも中つ り知らないこと、まあ〳〵お前さんに御召縮緬なんか引張らは てあげることあ出來つこは有りやあ仕ないのに、お正月でも鉦 けりやあお節句でも無い日に、然樣いふ衣服を仕てお在のや におなりたあ、眞實にマアお前さんは大變な幸福ネエ。それ。 これも悉皆此方樣のお庇蔭で、私等の働きやお前さんの力なく ぞからぢやあ、皺鉾立を仕たつて出來るこつちやあ有りません よ。だから眞實に仇や疎略に思つちやあ濟みませんよ、何で 此方樣の仰あり次第に身を粉にしても働か無くつちやあ濟みス せんよ。若しお前さんの仕方にそで無いことでも有らうもんな ら、此方樣ぢやあ容教つてお置きなすつても私が承知しや仕無 い心算で居るからネ。屹度妾が出て來てお前さんを折檻すると 御思ひよ。ハヽホヽハヽ、オヤマア此あ下らないことを云つ たものだネエ、お誰ちやんが如在でも有る人のやうに!。ハ・ ハ、だが、ただ此あ其程までに私あ此方樣をお前さんに取つち やあ有りがたいと思つてるといふ心持を打撒けたばかりなんさ。 ほんとに戯談ちやあ有りませんよ、身に染みて有り難いと思は なくつちやあ罰が當りますよ。妾もネエ、お前さんから縁を牽 いたお蔭でもつてネエ、此方樣のやうな結構な方にもお目にか かつたり、それから又種々優しく仰あつて戴いたりなんかして、 此樣な嬉しいことは有りませんのですよ。何樣かネエお前さ々 からも能く御禮を申してネ、そしてネ、今後も時々は御邪魔ア も御出入をさせて戴くやうにネ、何樣かお前さんからも能く頗 つて下さいよ。そして妾あ又お前さんに一つ御願があるのだが ネ。ナアニ面倒な事でも何でも無いんで、ただ今度他へ出る時 一寸囘り道を仕てネ、汚くつても妾の宅へ寄つて御茶の一つ〓 飮んで行つて貰ひたいのさ。ただもう、お前さんが如是に立派 におなりだといふことを誰か知らに見せて、私が腹一杯に天狗 を云つて威張たいんだから。ア、それから又、此樣なに何不足 ない結構なところへ御いでのだから、何も彼も要ることは御有 りぢや無からうがネエ、私のところにお前さんのこざ〳〵した 物や何かがそつくり仕て居る、彼品は悉皆明日にでも持たして 遺しますからネ。」 と、追從やら誤辭やらを混滯に、叮呼と粗略との虎斑の言葉浩 ひに、何かは知らず無上に機嫌好く饒舌り立てられ、お龍はお だただ煙に卷かれて、すべてが我が思のほかなりしに返辭に へ迷ひつゝ、如何に應對ひて如是は虎のやうなるべきお關をば 甘へて戲るゝ猫のやうには仕たりしかと、不審さに堪へぬ眼を 張つてお形を見たり。 尾もあらば振つて見すべき程悦びかへつて、お關はおのが賤し き詞の端々に下卑たる心の隈々を殘りなく露すをも顧みず、知 ら知らしきまでお形お龍に誤辭の數々を云ひ盡したる後、あ〓 り長居して愛想をつかされてはと思ひてか、但しはお形が餘り 多くも言はず餘り多くも笑はで、いつまでも面正しくなし居る に、流石の勝手者も氣の置けてか、呉々も此後とも疎み棄てら れぬやうにと頼み聞えて、お富お春にまで無理〓ねに拶ねつけ たるやうの愛想の有る限りを振り撒き、來りし時の荒々しかり しには引かへ、歸る時には疊もそつと踏むやうにして漸くに出 去れば、其背影の見えずなるや否や、送つて出でたるお春は堪 へかねて、フヽワヽと笑ひ出し、 〓『マア、何ていふ現金な得手勝手な人でしやう!。來た時にや あ宛然狂犬見た樣に、手でも出したら〓ひつきさうな怖しい額 を仕て來て、歸る時にやあ小狗かなんかの樣にころ〳〵して悦 で行くんですもの!。おゝ可厭なをかしなお婆さんだこと!。」 と、引返しながらお富と顏を見合せて云ふを、これも何處やら に笑を含みながらも叱るが如く上眼つかひして制し止めつ、お 富は小聲に、 『でも彼樣いふのが正直つて云ふんで、可愛い性分なんですか も知れませんよ。罪も何も無くつてネエ。 と冷やかに罵る。お春は此語を聞いて猶笑ひ止まず 『左樣ネエ、毫も奧底が無いんですからネエ。だが、左樣い ばお富さんなんぞは大變に可愛らしくない人なのり。何でも〓 慮深くつて、愼みが深いのですもの!。 と小聲に語り合ふ此方は此方、彼方は彼方にて、お龍は先づ訝り 糺し、 『姉さん、彼の人を何樣なすつたの?。 と問へば、お形は微しく笑を含み、 「何故ヲ。別に何樣も仕やうは有りやあ仕無いぢや無いか。 と澄まし切つて云ふ 『でも大變に怒つて來たといふのに、妾が下りて來て見りやあ 毫もそんな樣子は無くつて、怒るどころぢやあ無く、莞爾して ばかり居るぢやあ有りませんか。 『そりやあ何お前、何も不思議は有りやあ仕ないはネ。些少〓 かり金錢を與つたので如是悦んで仕舞つたのさ。』 「金錢をン。」 『あゝ。」 『あら!。何も姉さんがそんなものお與んなさる理由は無いぢ やあ有りませんか。さうして姉さんも彼の靜岡のに、お金は惜 かないけれども取られるのは業腹だから、と御自分でちやんと 然樣仰あつたぢやあ有りませんか?。 「そりやあお前の叔母さんには然樣云つたけれどもネ、彼りや あ云はば叔母さんの氣の濟むやうに云つただけの事でネ、何も 妾あ彼樣な慾張りの人と爭り合はうといふ氣は最初ら無か、つ ただよ。』 「でも理由も無い金錢を。』 「取られたつて口惜しかあ無いぢやあ無いか、物事さへすらり ツとそれで濟んで仕舞へば!。妾あ彼樣な人を對手に仕て爭り 合ふなあ何程得がいつても可厭だよ。 『そりやあ然樣でしやうけれども、餘りそれぢやあ‥‥ 『だつて仕方が有りやあ仕ないやネ、蚊を拍けばお前掌が汚め やうぢやあ無いか、蚤を潰しやあ矢張爪が汚れるはネ。下らな い人を相手に仕て居りやあ、始終下らないことを仕て居なけ・ やあならないやうな譯になるもの!。 其四十一 氣位高しと云はば氣位高しと云ふべし、〓しと云はば〓しと二 ふべし、お形は眉をだに動かさで澄ましかへつて斯く云ひて、 然も然も我が言に無理はあらじ、然は思はずやと云はぬばかり にお龍を徐に見けるが、お龍はやゝ頭を垂れて獨り物を思ひ居 つ、自己はおのれだけに何事をか考へ居れり。 『お龍ちやん、何を其樣にお前は考へ込んで居るの?〓。 介快氣といふまでにはあらねど、言葉の優しきには似ず聊か悦 ばぬ色してお形は尋ねたり。 「何つて、何も考へてや仕ませんけど、ただ餘り何樣も…‥ 「餘り何樣も‥‥世話になり過ぎるとでも思つておいでの?。。 『唯。だつて何樣も何だ彼だつて餘り御厄介ばかし掛けるんで すもの!。』 『ぢやあ其が可厭だとでも御思ひなの?。」 『あら飛んでもない、然樣ぢや有りませんけども、餘り重ね重 ねですから、何だか姉さんに濟まないやうな氣が仕て仕方が無 いもんですから、それで茫然と考へて居たんですよ。』 『宜いぢやあ無いかえ、そんな事を考へ無くつたつて。妾が好 きで爲る事だから放擲つて任してお置きでも!。何もお前に頼 まれたから爲るつて云ふんぢやあ無いのだから、妾の道樂で勝 手な事を仕て居るんだと思つておいでな。』 『でも何だか餘りなんですもの。彼樣な人にまで妾の故でもつ て…‥』 『宜いよ、そんな詰らないことを。氣にお仕で無いといふのに 〓ヽヽお前は近頃は氣が小さくおなりだネエ。構はないぢやに 無いか。そんな事ばかり云つて御いでのやうぢやあ、お前に〓 あまだ妾の氣性も心持も能くは解らないのだネエ、いやな人が ことネ!。 『いゝえ、姉さんの心持だつて氣性だつて其あ知つてますは いくら妾が恰悧ぢや無くつても其あちやんと知つて居ますよ。。 然樣、それぢやあ宜いぢやあ無いか、そんな事を氣に仕なノ つても。妾あお龍ちやんの先から知つてる通りにネ、何にも れといふ慾も願も有りやあ仕無いけれども、ただ毎日々々を心 持宜く、不快なことや馬鹿な事や汚穢い事にたづさはらないで それで消光つて行きさへすりやあ、好いと思つてるのだから。 『そりやあもう姉さんばかりぢやあ有りませんは、妾だつて、 誰だつて。』 『それ御覽な。そんなら彼樣な人にかゝりあつて爭りあつてな んぞ居るより、些細ばかしの阿賭物で奇麗事に埓を明けた方が 何程理屈が好いか知れや仕無いやネ。下らない人を相手にする 位下らないことは有りやあ仕無いもの!。. 『そりやあもう然樣には定つてますけれども、其の些少ばかし の物だつてただ湧いて來やあ仕ませんから。」 『ホヽヽ、そんな下らない見つとも無いことを二度と云つてお 呉れぢやあ可厭だよ。可惜お龍ちやんの器量が下つて仕舞ふよ 今が今の心持さへ好けりやあ其で可いんだもの、何も格いもの は無からうぢやあ無いか。妾あ妾の身體だつて格んで居や仕無 い身ぢやあ無いか。何でも可いから、妾あ妾の周圍にお前のや うな妾の好きな人達を置いて妾の好なところに居て妾の好きな ことを仕て遊んで居りやあ其で可いのだよ。 其四十三 『そりやあもう姉さんは何をなさらうと隨意におなんなさる事 ですから、姉さんの氣性一ばいに生活して行かうと御思なさる そりやあ其で宜いんですが、妾あまた妾で、働きも意氣地もな いもんですから‥…〓 『それで?』 「…………」 『あゝ解つたよ!。恩を受けるなあ可いやうなもんだけれど 返しやうの目的が無いから困ると御おもひなんだらう。』 『困るといふんでもありませんけど、まあ然樣なの。何も妨さ んが人に恩返しを仕てもらはうなんて云つたやうな其樣な氣を 有つておいでぢやあ無いのは知りきつてますが、何樣したら妾 が嬉しいと身に染みて思つて居る此の心持を、何かに爲て妨さ んに見ていただくことが出來るだらうと思て、それが氣にな てならないのです。妾あ如是なぶらんさんの身ぢやあ有りま一 し、何一つ遂げて出來る拔が有るんぢや有りませんし、これ、 ら前途何年だけ經ちやあ何樣なる身だつて云ふんでも無いの〓 すから、心にやあ斷えずに思つて居ても、何時になつたらまあ 空少ばかりでも御禮らしいことが出來ることだらう!、と思と と何だか妙に味氣なくなつて、妾の行末が情無か果敢無い- 薄暗い路を薄寒い日に辿るやうな、何とも云へない心細いやら に氣が仕て、とても自分の氣の濟むだけの事を仕て姉さんに見 ていただく事なんかは、一生だつても出來無いやうな可厭な感 がするんです。斯樣いつたら御笑ひなさるでしやうが〓ぢやあ 無いのです、今になつて叔母が云ひました言葉が妙に胸に浮ん で來て、いつそ前途も見えも仕ないのにうか〳〵と日を過すよ り鋤や鍬を擔ぐ男でも實直な堅い人を、自分の一生の柱に頼ん で眞黒になつて働いて、さうして適には姉さんのところへ大恭 や竹の子を持つて來て、これは妾が作りました、これはわたし の背戸の藪で掘りましたつて云ふやうなことを云つて、ほんよ にお龍がまあ田舍者になりきつて御仕舞で、何と好いお土産を お呉れぢやあ無いか、とお富さんやなんぞと御笑ひ合ひなすつ て頂く樣な其樣な身になつて仕舞つたら、其の方が宜いか知ら と思ふ氣さへ仕ますが、まさかに然樣も思ひ切れないで‥‥ 眞面目に云ふ言葉は、笑聲に打消されたり。 『ホヽホヽホヽ、可笑なお龍ちやんだよ、ホヽホヽホヽ、何だ ネエ急に年をお取りだネ。詰らない!。濕つぼい、そんなこと を言ふものぢやあ無いよ。大根や竹の子なんかあ妾あ可厭だよ、 〓 女は所天次第ぢやあ無いか、立派な所天を御持ちで、そして辛 にやあ金剛石の首飾りでもなんでも澤山お呉れ!。買物は勝〓 だあネ、男子は撰み取りにするが宜いぢやあ無いか、腕のある 確固した男さへ持ちやあ、何も彼も湧いて來やうぢやあ無いか え。そりやあお前の胸ん中に働きのある好漢が無いもんだから、 そんな陰氣〓いことを云ふやうになるんだよ。いくら好い人で も手腕の無なあ、所天に仕やうとすりやあ淋しくつていけな いよ。彼の人なんぞはまあ抛擲つて置いて、搜してごらん、何 程も好い男はあるよ。お前に一人見せてあげやうかネエ。其男 なら屹度お前の行末を春の日に好い海邊でも歩かせるやうに爲 るに定つて居るよ。其に引代へて水野つていふ人ネ、彼の人ネ、 彼の人と連れ立ちやあ、お前は成程薄暗い路を薄寒い日に辿ス よ。』 其四十四 『いやですは姉さん、また其樣な事を云つて!。妾あ何も彼の 人を何樣の彼樣のと其樣な事なんか胸の中で思つてや仕ません て云つたぢやあ有りませんか。」 『あゝ然樣だつけネエ。』 と云ひたる限り後は何とも云はで止みたれども、お形はお龍の 言葉をば信ずるが如く疑ふが如く其の面を見やりて、心解けて にもあらず、さればと云ひて嘲みてにもあらず、ただにやりと 笑つたり。 氣の直なるお龍はお形の言葉を言葉通りに聞けるなるべし。 『そして其樣な戯談なんか御云ひなすつたつて、其りやあ姉さ んみたやうに何も彼も能く出來て、おまけに世の中のほんとの 事が悉皆解つて居て、容貌も百人千人に勝れて美しいといふん なら、妾でも出來るか知れませんけれど、男子は擇み取りだな んて、マア其樣なことは、生れ代つてでも來なけりやあ到底出 來やしません。妾なんか圃の中の蠻南瓜や茄子だつて、ほんと に叔母の云つた通りの下らない禀賦なんですもの。出世しやう と思つたつて、運に乘らうと思つたつて、何が何樣なりましや う。加之もう〳〵所天を持たうなんて、そんなことはふつ〳〵 厭に思つて居るんですから。持つ位なら虚言ぢやあ有りません 蠻南瓜や茄子に相應な何首烏球に手足の生えた樣なお百姓さん でも持ちましやうが、それも矢張可厭ですから、一生一人で居 ます。氣の利いた男を持ちたいの、出世を仕て見度いのと、甘 樣な蟲の好いことを考へて居るほどに身の程を知らなかあ有り ません。ですから前途の事を思ふと、心細くなつて仕舞ふんで す。〓 と云へば、 『オホヽヽ、何樣か仕ておいでだよお龍ちやんは。そんな老け た事ばかし云つて何樣するつもりなんだらう。蟲の好いことを 考へてるからこそ人間は生きて居られるんぢやあ無いかえ。お 前見たやうに其樣なことを云つてた日にやあ終局にやあ坊さ々 にでもならなきやあ追付かないことになるはネ。いけないよい けないよ、そんな弱い氣ぢやあ。何も一生だは、ネ、面白く生活 すが可いぢやあ無いか。擇み取りに仕て取れ無くつたつて本な んだもの!。また擇み、また擇み仕て居りやあ、其の中にやあ 氣に入つたので縁の有るのも出て來やうぢやあ無いか。』 『あら!』 『ホヽ、何樣だえ?、妾にやあ愛想が盡きるかえ?。」 其四十五 『ようござんすよ、お富さん、自分で展りますから。」 讀みさしたる何やらの書物を燈の下に置きて、身を反りてお龍 はお富を見かへりつ、愛想も深く制止むれど 『でも御命令なんですもの、妾が仕ませんぢやあ‥‥。マア其 のまんまに御本を見て居らつしやいまし。 と此室の次室の長四疊に附ける押入より、お納戸絹の中型の〓 眼には美しき小〓卷など輕げに取り出して、お富は今早速と手 ばしこくお龍の爲に臥床を設くるなり 『あら、ほんとに不要つて云ふのにお富さん!。お客さまぢや あ有りやあ仕いし、此樣な妾なんかが床の上下までお前さん たちに仕て貰つちやあ、それこそ罸が當つて冥利が竭きつちま ふは。』 立上つて自ら爲さんとすれば、お富は笑を含み。 『お客さまぢやあ無くつても、でも、妾の妹だと思つて何でも 御仕と、嚴く御命令になつて居るんですも。』 と云ひて、 『そりやあ其樣でも妾あまたお前さん達と異ふ身分だとは思つ て居や仕ないんだから、 と云ひ〳〵自ら上掛の衣被を搬び來れるお龍と共に、終に二〓 して展べ終りたり。 一風も吹いてや仕ないやうですがお寒い晩ですことネ。これぞ 宜うございますか、御薄くは有りませんか知ら?。 『いゝえ澤山ですよ。主人は?。もうお就眠?。 『ハア、あなたにもお就眠つてお云ひつて。今しがた既。〓 「然樣。お春さんは?。」 『まだ裁縫を仕てゐます。』 『なか〳〵の人ネエー。 『左樣でございますとも、負けない氣の人ですよ。何でも妾に やあ負けたくないと思ひましてネ。』 ホヽヽ、だが、あけすけで可愛らしい兒ネエ。 『さうですよ、些も毒は無い人で。ですから今日のお客さまの 最初の樣子にやあ何樣なにか怒りましたらう!。オホヽ、そり やあ可笑いほどでしたよ。』 「然樣!。そんなに最初は彼方で怒り立つてつん〳〵仕て遣つ て來た?〓 「さうですとも。そりやあ甚い權幕でしたの!。。 『それを何樣して妨さんが直に彼樣にヘイ〳〵するやうに仕て お仕舞だつた?。 『そりやあ何ですもの!。』 「何樣したの?。お前さん悉皆知つてゝ?。」 『すつかり知つてます、斯樣なんですよ。」 お富は諄々として始末を説き、お龍は默々として一切を聞き終 りたり。 其四十六 有りつる事のいろ〳〵を語りて後、要も無き業したりと聊か〓 みてか、御就眠なさいましを最終の言葉にして、年齡に似合は ずくすみて老けたるお富は靜に此室を去りぬ 階子を下りし音の彼方に消えてよりは、室毎々々の襖の隔てわ ればにや、但しはお春も共に皆眠りに就きたればにや、微少な る音響だに聞え來ず、風無き冬の夜の、戸外は定めし星斗燦然 と霜の降る最中なるべし、天地死せるが如く靜にて、ただ流石 大都の市中なれば、此家よりはやゝ離れたれど、凍てたる路に 甲の走る轟きの、遠くより來りては復遠方に去るが斷えざるの み、犬さへ鳴かず、穩やかに今宵は更けたるなり。 其故は主人ならでは知るものなけれど、樓上の此處には特と電 燈を忌みてか其の設備あらずして、やゝ高き置洋燈のいと美し きを用ひたり。電燈はこれを細むることも之を太むることも油 燈の如く自在にはあらで、點せば明る過ぎ、點さざれば全く暗 く、如くものも無き春の朧夜の朧氣なる光を、時々の心任せに 加減して趣致を取るやうなることの叶はねば、如何なる折にか 面白からぬことの有るがためなるべし。お龍はやがて衣を更へ、 枕頭の其燈を〓えんとするまで細めて眠りに就きたり 燈火の光は朦朧と一室を籠めて、床間には軸を掛けずに此のみ を眺めと挿したる妙蓮寺山茶の、半咲きたるが一輪、咲かざろ が一點、浮き出づるが如く白く見えたる他には何の心を惹くも のも無し。お龍は此の瀟洒にして清らなる室の中に、柔らかな る美しき燈の光を浴び、穩やかに沈々と更くる夜を寢て、優し く幸福多かるべき夢に入らんとしたり。されど如何にしけん頓 には夢に入りかねて、一度二度寢返りして、不圖眼を開き見れ ば、我が頭の上に唯一羽の白き驚の、羽を斂め頸を縮めて物思 ふが如く、けろりと立ち居たり。夢にもあらず幻影にもあらず 物の精にもあらず、此は是豫てより此樓に掛けられたる一面の 額の畫なりしなり 鷺は夕暮の小閣きに立てるるり。燈火の光は弱々として其の暗 さに同じきなり。畫には魂魄ありや鷺は今動き出さんとす。 其四十七 我が眼の彼を見つむれば、彼の眼もまたあり〳〵と我を見詰め て、漸く此方に近づき來らんとする氣勢するに、お龍は思はず 知らず慄然と仕たりしが、忽地にまた白ら笑つて、何の、燈火 の工合にて浮出したるやうにこそ見ゆれ、不思議も更に無き〓 通の繪なるをやと思へば、〓はまた凝然として畫の中に靜に立 てるのみ。 思へば此の畫は古くより姉さんの有てる畫にて、幾年の前なり しか明らかならねど、我が猶年ゆかで遠慮氣も無く明暮に遊び に來ては姉さんに甘へし十幾歳の頃、如何なる折にか此の額を 見て、姉さん此の繪は淋しくて不厭な繪なことネエ、と云ひし に、其樣な事を御云ひで無い、此りやあお前の書いた繪ぢやあ 無いか、と云はれて、調戯はれたりとは知らず、氣味の惡さ〓 吃驚して顏の色を變へ、あ、惡い戯談を云つた、勘忍してお呉 れ、ただ少し譯があつて妾が有つて居る此〓を可厭だつてお云 ひだつたのが甚く可厭に聞えたものだから、詰らないことを云 つてお前を吃驚させた、妾が惡かつた、と謝罪られ、慰められ し記憶あり。其の時我が心直におちつきて、何、姉さんが好な のなら妾も好になるは、そして妾も眞似をして畫いてあげるは と云ひて、其の日筆を執つて見描しの覺束なくも、何樣やら斯 樣やら似つこらしきものを書きて與へて、大に衰められ悦ばれ しことありりり。されど其の理由といふことは聞きもせず、間 かんともせで、其儘に打過ぎ、それより後〓〓と無く此の繪を 見、此の繪の下に寢たる事もありしが、氣にもかけず、心に〓 止めず今日に至りしに、今宵はたま〳〵夜の更けて稀らしく靜 寂に、燈火の光りの朦朧したる工合の繪に映り合へるが上、〓 が心のさま〴〵の事を思ひて異しく冴えたるあまり、ふと我が 眼につきて、我が思の此に牽かれしなるべし、此繪の昨日に〓 口は何一つ異りたることもあらぬを、何時に無く鷺の動き出も するやうに思ひ做すも愚なることなりと思ひ消しつ、お龍は眠 らんとして強ひて眼旺を合たり。 寢苦しきといふにはあらねど猶夢に入りかねて、ふとまた眼を 開けば、鷺は薄き〓に動きて今や此方に歩まんとするな。 少し理由があつてわたしが有つて居る繪と慥に彼の時に姉さる の云ひたる理由とは何の理由なるべきか、彼の時はうつかり聞 流して其の仔細を尋ねもせず、又その後は此の繪につきて一ト 言の談話を仕たることもなければ、其の解らうやうは無けれど 今思へば此の繪につきては何か深いわけの有りさうな心持のす 〓!。姉さんは自分の過去話なぞをなさつた事は些少も無けれ ば、眼に看たるほかには我は何一つ知らねど、徃時は一體どと いふ徑路を經た人?、此の繪にはまた何のやうな理由があるや ら?、妾の身にしても種々の過去がある、姉さんの徃時にも何 も無い事は有るまい、他の事は兎も角も此の繪に就いてだけブ も!。あゝ然し此の樣な事をおもうても何の甲斐も無きことを、 とお龍はいろ〳〵に思へし末には心をなだらかにして、彼の〓 の繪を何氣もなく見たり。 其四十八 幾度と無く此繪も見たりしが、心の中に物のありし時は、たが 其に屈托して眼にも自然と着かず、また何事も無き時は氣にも 止めず其儘に見て過たりし故にや、今まで幾年の間ただの 及も、古き晴昔の事などを思ひ出したる折も無かりしに、今害 は差當りて口惜しいといふ事も悲しいといふ事も又氣造こしい といふこともあるにはあらず、まして人には明かせぬ〓かしき 思ひに胸の底を〓き〓りたきやうの心地するといふ事なんどの 有るにもあらねど、さればとて又全く雲無き空のただ美しく青 きやうに胸の中のさつぱりと乾淨なるにもらず、取り詰めて 此を思ふといふ事も無けれど、何も彼も忘れ果てゝ物覺えぬ夢 路に入るといふほどにもなりかぬるより、偶然、眼の前の此の 寫の繪などの心に留まりて、昨=今日の事にもあらぬ古き記惰 の新に浮び現はれ來れるにや。お龍は猶忘れんとして其の覽を 忘れ得かねたり。 「それにしても書間の姉さんの言葉は、妾が心を引立てゝ下さ らうとからの戲談交りの其言には相違無けれど、餘り強過ぎて 強過ぎて一々妾の耳には可厭に聞えてならざりしが、若し彼言 がまあ姉さんの眞實の意からのことなら、姉さんは矢張靜岡の 叔母さんも同じことの人…りやあ智惠も有り餘るほど有り 同情も痒いところへ手の屆く程有り、氣位も大〓に違つて、何 も彼も勝れてはお在なさるには相違無いけれども、種々のこゝ が勝れて御在なさるるだけに仰ある事も輪を掛けて、叔母はただ 堅人を丈夫に有てといつたところを、姉さんは世を渡る伎倆の ある毅然とした立派な漢子を擇つて配偶にしろと御云ひになつ ただけで、心は矢張差違は有りは仕無い。まさかに姉さんの本 心からとは思へぬけれども、全然意にも無いことを御云ひでは 無かつた樣子。一旦斯樣いふ不幸な目を見て來た妾に、また男 を有てと仰あつて、眞實に然樣いふことを妾が唯々と云ひさう なやうに思つておいでゞも有らうか知らん。あれほど能く何も 彼も御解りの姉さんで、あれほど妾を可愛がつて下さる彼の姉 さんで、そして現今ぢやあ此の廣い世界の中で妾に取つちやな 叔母よりも誰よりも一番馴染の深い彼の姉さんが、よもや妾を 其樣なことを爲さうなものとは思つて御在ぢやあ有るまいと思 つては居るけれど…‥。成程二度三度丈夫を有つ人も稀らしく は無いから、叔母の云ふのも世間普通では有らうし、不思議は 無からうけれども、そりやあ他の人の話で、妾は妾の性分。妾 の性分を知りきつて御在のあの姉さんが、妾も矢張他の人と同 じやうに、時が經ちさへすりやあ又新規に男を有つものと思へ て御在ぢやあ有るまい。そんな氣になれるやうな薄情な妾なら に、人に棄てられたからと云つて、彼樣は口惜がらない。姉さ んは妾が何樣な女だといふ事は知りきつてお在に違ひ無い。は れとも過日らの御談といひ、今日の御言葉といひ、何だか妾 には可厭に聞えてなならぬ。若しや妾を矢張眞實に今後また男ア も持ちさうなものに思つて御在のか知らん。まさか其樣な事は 有るまいが。いや〳〵水野といふ人の事を幾度も御云ひで、然 も妾が其の人を何樣かでも思つて居るやうに御取りのやうに問 えたあ、若し左樣御取りのやうなら、其れあ働きのある男を 有てと御勸めなさるのも道理たけれども、何妾が彼の人を何樣 の斯樣のと思つて居やう。妾はただ彼の人を氣の請なと思つて 居るばかりで、妾なただ彼の人を嫌ひでは無いけれども、何ブ 妾に名淨で無い底心か有らう!そりやあ妾は彼の人を好いて は居るけれども、好いて居るばかりで何樣の斯樣のとは眞實に 思つては居ない眞個に妾は乾淨でない氣なんぞは微〓も有( ては居ない 其四十九 『妾は自分からは其樣な女では無いと思つても居れ、人には矢 張り其樣な女にも見えやう。成程其も化方の無い事ゆゑ、世間 の人の誰彼が妾の心を知つて呉れない其を〓惜しいとも情無〓 とも思ふでは無く、た叔母は彼の通りの木で造たやうの人 の事なれば、はじめから妾の心の分らぬも少しも無理とは思は ず、解つて呉れなければとて情無いとも思はぬけれど、姉さん だけは妾が何樣な女だといふことを知り拔いて居て下さるとば かり思つて居たに、矢張姉さんも妾を知つて下さらないかと〓 ふと、もう此の廣い世の中に眞實の妾の心持を知つて呉れる人 は一人も無いことかとつく〴〵情無くなる。もつとも惜い彼の 男に欺されたそも〳〵の始から終局までの間は、始終姉さんに 遠ざかつて居て、何事も姉さんに隱して居た其は惡かつたなれ と、後では羞かしい蹊蹟の何も彼も話して仕舞つてある故、猶 のこと妾の氣心も御わかりの筈なるに、水野さんの事について 何樣の斯樣のつて二度も三度も御云ひなすつたばかりか働きの ある男を見せやうかの何のと、戯談には違ひないけれども可厭 な事を仰あつたのは、矢張妾の眞實の〳〵心持が御解りが無い からかと思はれる。年端のゆかない故でつい欺されたにしろ何 にしろ、女の廢つて仕舞つた斯樣な身の上でもつて、たとひ妾 が彼の人に迷つたからにしてが、何樣まあ正直で清潔て純粹な 實意の深い水野さんのやうな彼樣な人を、加之に横合から何樣 することが出來やう。そんな汚い心持をもつて、のめ〳〵とし た事を仕やうと爲もする女の樣に妾が見えやうかと思ふと、餘 り情無くて味氣無くなつて仕舞ふ。しかし姉さんにさへ妾の心 持がほんとには分らぬのなら、然樣いふ不正直のが一體の世間 の女の常なので、妾のやうなのは、よく〳〵の馬鹿なのだらう。 つい氣の毒と思ふ心が募つていろ〳〵と水野さんの爲に頼みご となんぞを仕たので、姉さんにまで可厭な事を云はれる。あ、 これも妾が愚鈍過ぎるからの事で、もう〳〵いつそ可厭にな( て仕舞ふ姉さんに頼んだ事さへ治尾能く出來たなら、水野) んの水の字ももう云ひ出さないで、當分は尋ねもすまい、曾〓 も仕ますまい。何でも些少の日數の中に、姉さんが水野さんの 事を御云ひなさるやうの調子が、急に異つて來たやうに思はれ る。しかし、これも妾の僻見か知れぬけれど、何樣も何かの譯 かあつて、妾が水野さんに近よるのを御嫌ひなさり出したやこ にも思はれる!。此上も無い有り難い姉さんの所思が然樣なら 其ても無理に彼の人を何樣の斯樣のと思つて居る併細のあるの ては無いし、妾が彼の人に遠ざかるのに別に苦も無い譯、妾は 何處までも妨さんの指揮を受けて、何を修業するにしろ、何で も宜い一人立の出來る身になつて、ちやんと一人で過せるや〻 になつてから、それから自分の勝手に水野さんの世話でも誰の 世話でも、自分が親切にして遣りたいと思ふ人には親切にして 遣りませう。彼の優しい智惠の深い氣の大きい姉さんでさへ妾 の眞實の心持が解つて下さらないかも知れないのだもの、一〓 の外には眞實に味方は無い!。然樣思つては濟まない事ながら、 此の繪の中の〓が物を云つたなら、屹度姉さんの徃時も分らこ けれど、姉さんもやつぱり辛いか悲しいかの瀬を越して、そし て今のやうに一人立同樣な身におなりに相違無い。そして此の 鷺は其の因縁の紀念でもあらう。驚も物を云はず、姉さんも御 話しぢやあ無いけれど、自分に比べて姉さんの徃時をおもふと あゝ何と無く朦朧と解るやうな氣がする!。 お龍は眼を開いてまた彼の繪を見れば、纂はただ心も無く水に 立ち盡して、爾我が心を知れりや、我は謎なり、と云はぬばか りに默々たり寂々たり。 天うつ浪第三終 明治三十九年十二月二十九印職 明治四十年一月一日〓行 實價八拾〓 京六日本ば丁玉〓〓 濱行 和田靜子 セ 印〓者中野鑛太即 〓ー 發衛所春陽堂 〓木同五一清 〓口陸一六一七 じ〓五 印刷所帝國印刷株式會社